女性と男性の差異について:試論2&3:コスモグローカル・ルネッサ

女性と男性の差異について:試論3:コスモグローカルルネッサンス差異資本経済の発動


男性の連続的同一化について、さらに検討したい。男児は母親と連続的同一化する。試論2では、それが、連続的同一化=言語自我へと転換すると述べたが、この転換には、母親との連続的同一化がベースになっていると考えるべきだろう。すなわち、母子連続化を基礎として、言語自我化しているのであり、母子関係は切断されていないのである。つまり、男児・男性はベースでは幼児のままである、基本的には。この母子連続性が無意識となっているということではないだろうか。母子連続性/言語自我連続性である。これはどういうことであろうか。男性の自我化において、母子関係が無意識として基盤にあるということだろう。すなわち、不連続的差異性がないということである。すなわち、男児・男性の精神において、一般に、メディア界のゆらぎは生じないということである。丁寧に言うと、男児の順列エネルギー(プラスの強度・陽)とは、連続同一化へと展開するのであり、男児の不連続的差異が内部へと隠蔽され盲点となるのである。自我意識は連続的同一化中心であり、自我的個体には不連続的差異性、特異性がないのである。ゆらぎを内部へといわば隠匿してしまっているのである。ゆらぎとは、共感性であり、差異共生性をもつのであるから、それが隠蔽・隠匿・遮蔽された男児・男性の精神においては、暴力性あるいは傲慢さが支配的なのである。ブッシュ、将軍様、小泉、その他の権力者を見よ。
 では、連続的同一性はなぜ暴力的ないし傲慢かと言えば、プラスの強度によって差異を無化するからである。これが反動性である。反動暴力である。ルサンチマンである。このような自我の帰結が近代西欧主義(米国はこの帰結である)であるから、世界は戦争が支配的なのである。資本主義は、勿論、この自我とパラレルである。この暴力的自我が資本主義を権力化するのである。思うに、初期資本主義は、個人主義というか差異=自由性をもっていたはずである。中世/封建制の縛りから、ルネッサンスを経て、解放された個・特異個・差異があり、それが資本主義の成立と結びついたと思う。しかし、コギトは、同時に自我へと展開するので、これが反動となり、資本主義も反動化するのである。これがいわば「フジサンケイ・グループ」化である。すなわち、私の言葉で言えば、民族国家資本主義になるのである。差異資本主義が、そのように変容するのである。
 結局、現代の問題とは、新たなゆらぎ、不連続的差異資本からの新しい経済の創造・構築である。新しいメディア界経済が必要なのである。それは、不連続的差異資本経済、共創共生差異資本経済であろう。おそらく、ホリエモンはこの新経済の先駆者である。
 以上、ジェンダー論から逸脱したが、問題はパラレルである。すなわち、父権制経済の終焉であり、新たな母権制経済の誕生である。


p.s. 以上の考察から、イタリアのルネッサンス期の資本経済と宗教改革を経た資本経済とは異なるはずである。差異資本経済とは前者であり、後者は、連続的資本経済である。アメリカ資本主義が帰結である。そう、二つの資本主義あるのであり、今や、前者が世界的に復活しつつあるのであると言えよう。コスモグローカルルネッサンス差異資本経済である。



[不連続的差異論] 女性と男性の差異について:試論2


先の考察では、なぜ、父権的ないし一神教的自我が成立するかの説明がついていない。すなわち、それが成立するためには、メディア界ないしイデア界との切断がなくてはならないからだ。天と地との切断である。超越化である。イメージは造形されているのだが、まだロゴス化されていない。つまり、連続的同一性の自我に個が染まっている、張り付いている、自己陶酔しているのである。メディア界においては、ゆらぎがあるから、そのような自我にはならないのである。女性的自我である。しかし、男性はゆらぎを排出・隠蔽する傾向が強いのである。男性は陽とすれば、確かに女性は陰である。しかし、真理は後者にある。偽りは前者にある。直感では、男性は女性の倒立のように思える。女性的な側面が芯にあり、それを男性性で装っていると思う。つまり、本体は女性なのである。それはイデア界を考えれば当然である。男性の本質は女性である。というか、人間の本質は女性である。しかし、それを男性は隠すのである。何故か。これは身体の虚弱さからくるのではないか。すなわち、連続的同一性のエネルギーをもっているから、母子連続的同一性が女性・女児よりも強いのである。そう、この連続的同一性のエネルギーが、ゆらぎを無意識に排出・隠蔽するのだろう。そして、このエネルギーが母親から自我へと向かうのである。これはまったく連続論理の帰結である。齟齬はない。つまり、男性は連続的同一性のエネルギーから、いわば自発的にゆらぎを排出・隠蔽してしまうと言えよう。これが、ゆらぎ、メディア界から見ると、反動となっているのである。しかし、能動性ではある。だから、連続的同一性のエネルギーの帰結が父権制一神教、超越神と言えるだろう。そう、極限である。これが、メディア界やイデア界との切断の意味であろう。これが現代、アメリカ、ブッシュ、権力者となっているのだ。ゆらぎのまったき欠落であるブッシュ。そして、フジサンケイ・グループ。とまれ、切断と言ったがそれは真実ではない。いわば盲点のようになっているのである。気がつかないのである。裏面にあるのである。あるいは底面に。あるいは、内に包装されているのである。男性の女性への生成変化は必要である。ゆらぐ男性。
 さて、ここで、不連続的差異論をイメージ化してみよう。もっとも、いろいろイメージ化できるだろうが。その一バージョンである。



   ・・・女性/陰・・・

__イデア界(不連続的差異)___
                 |
                 |
                 メ
                 デ
                 ィ
                 ア
                 界
                 ・
                 ゆ
                 ら
                 ぎ
                 |
___現象界(連続的同一性)__ |
   
   ・・・男性/陽・・・



p.s. これを圧縮して平面にしてもいいだろう。すると、イデア界/メディア界/現象界の一体の平面が生じる。ガタリドゥルーズが内在平面と呼んだものはイデア界であろう。しかし、そこにはメディア界が欠けていたのではないだろうか。彼らの哲学には、メディア界に当たる概念はあったろうか。たとえば、「分子状」と「モル」という二元論ではなかったか。『千のプラトー』は完全に二元論である。


p.p.s. 現代は、上図で言えば、現象界の左端から、新たなゆらぎを介して、イデア界へとつながるエポックである。