女性と男性の差異について

以前、考えたのは、女性がプラスのエネルギーで、男性がマイナスのエネルギーであるということである。なかなか理論化するのが難しいのだが、直感では、女性の方が男性よりも不連続的差異的であるということである。これを理論化しないといけないのである。メディア界の問題であろう。順列エネルギーの考えから言えば、プラスのエネルギーに対して、いわば相補的にマイナスのエネルギーが生じる。この正負の意味を考えなくてはならないだろう。これまでの考えから、男女も螺旋運動をするだろう。これはイデア界への回帰だろう。エロースである。以前、女性は男性に自分の影を見ると言った。男性は女性に自分のいわばイデアを見ると言った。この考えから見ると、女性は不連続的差異的であり、男性は連続同一性的である。このように考えられるならば、私のジェンダー論は肯定される。しかし、なぜ、女性と男性はそのような相違があるのか理論化しなくてはならない。とまれ、この問題は、人間だけではなくて、生物一般の問題でもあるだろうし、自然科学の問題でもある。つまり、なぜ極性があるのかということである。そう、こういうことではないか。90度回転によって、差異共立構成態である擬制連続態が生じる。これはメディア界であり、一方では複数の不連続的差異が存し、他方では連続的様態が「群集」している。この擬制連続態が現象化するのであるが、このとき分化が起こるのではないだろうか。すなわち、不連続的差異の側面が「女性」になり、連続的同一性の側面が「男性」になるのではないか。疑似零度が男性であり、不連続性が女性である。単性(処女)生殖(処女マリアによるイエスの出産)とは、この分化がないものと考えられる。では、この分化のシステムは何か。
 少し考えを変えよう。90度回転がプラス・エネルギーとしよう。そして、それを戻すのがマイナス・エネルギーである。このために自然は、雌雄分化を行ったのである。こう考えてみよう。疑似零度化は、強度をもつ。そして、強度はプラスとマイナスの側面をもつのだ。プラスの強度があり、マイナスの強度があり、これが牽引しあって、イデア界に回帰する。そして、プラスとは疑似零度化であり、マイナスとは回帰化であると考えたらどうだろうか。このプラスが男性であり、マイナスが女性ではないのか。プラスは連続的同一性へと向かい、マイナスは不連続的差異へと回帰するだろう。このように考えるならば、私の予測は理論的に証明されるだろう。すなわち、プラス強度が男性で、マイナス強度が女性である。私は女性の方が強度が強いと言ったが、それはこの場合、マイナス強度であるということである。では、プラスとマイナスの極性とはどういう意味をもつのか。順列エネルギーがあるということだろう。プラスの順列エネルギーが男性であり、マイナスが女性である。前者はゆらぎを排し、後者はゆらぎを指向する。では、順列エネルギーとは何か。これは、イデア・不連続的差異の自転ではないか。あるいは、イデア界の偏差ではないか。あるいは、イデア界の縁。これがメディア界でもある。つまり、イデア界の縁が順列エネルギーの擬制を生み、それが連続的同一性という現象界を発現する。そして、反面として、擬制のマイナス順列エネルギーが形成されるということではないか。簡単に言えば、イデア界の縁が「男性」であり、イデア界本体が「女性」である。