不連続的差異論

[不連続的差異論] 不連続的差異、特異性、連続性:試論2


試論1の終わりで、特異個から連続的同一性である自我への移行について触れたが、それはメディア界のゆらぎを排出する一種偽りの様態であると述べたことを継いで考察を行ないたい。問題点は、何故、ゆらぎを排出(精神分析の術語で言えば、抑圧・排除)して、連続的同一性=自我を形成するかである。その事態は喩えれば、コインの裏側にゆらぎをいわば隠して、表側に自我を置いて、それに光を当てて、裏側は陰、闇となっているのである。近代的自我・近代的合理主義はこのようなものである。(無意識、潜在意識、深層心理とは、この裏側を指すとみるべきである。ゆらぐメディア界が真の無意識である。)私はこのような自我を父権的個体・自我・自己であると、またとりわけ近代西欧的自我と考える。では、所期の問題に返ろう。なぜゆらぎを隠蔽するのか。ここで先に言及した母子関係の問題があるように思うのである。精神分析では、去勢コンプレックスがあるために、母子関係(エディプス・コンプレックスマザー・コンプレックス)を抑圧して、自我そして超自我を形成すると考えている。ラカンの考えでは、母子関係である想像界を抑圧して、言語自我の象徴界を形成するというものである。つまり、精神分析の核心的契機は去勢コンプレックスである。不連続的差異論ではこの問題をどう見るかである。
 母子関係であるが、これは、人間の生来の身体の虚弱さから母に依存せずにはいられない必然性から来るものであるが、ここで、自己と母との連続化が生じていると見ることができる。すなわち、本来、不連続的差異ないし特異性である自己は、母へと連続的同一性を形成するのである。しかし、自己は特異性であり、独立指向をもつのである。ここで、齟齬、アンチノミーパラドックスが生じている。この母親への依存を精神分析は去勢コンプレックスと見るのである。しかし、この考え方は父権的である。フェミニズムからの批判があったが、それは当然である。
 さて、男児と女児では不連続的差異の構成に差異があると考えることが当然できる。特異性の相違である。以前に私は女性の方が強度が高貴で、男性の方が劣弱であると述べた。高貴/劣弱とは主観的な言い方なので、客観化すると、女性の方が強度が強く、男性は弱いということである。これは、どういうことかと言えば、不連続的差異の共立構成態においてゆらぎが少ないということである。すなわち、連続的同一性化しやすいということである。すなわち、母親への依存が女児よりも強いということである。しかしながら、ここで独立しようとするときに、連続的同一性である言語へと移行すると考えられるのである。母依存から言語依存である。これはどういうことかと言えば、言語連続的同一性化であり、ゆらぎの排出である。これが男児の自我形成の仕組みであると推測できる。これは、ゆらぎを排出するために、反動性をもつのであり、ここで男児の反動暴力性が生起しているのである。父権的暴力はここから発していると考えられる。また、思うに、一神教の形成も同質であると考えられる。ゆらぎである多神教を排出するのである。とまれ、これをここでの仮説としたい。
 では、女児の場合は、逆に、ゆらぎが強く、独立する場合でも、ゆらぎをもっているのである。つまり、女性はメディア界的存在なのである。そして、反動性が少ないから、平和主義的である。特異性、差異を肯定する傾向にあるのである。人類学では母権社会が平和共存の社会であると認めているだろう。(参考:『聖杯と剣』リーアン・アイスラー著 
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0905.html
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/~ssuzuki/ClassLecture/Feminism_Synopsis_Total.htm
 粗略であるが、本件はここでいちおう閉じたい。また、再考・再検討する予定である。より精緻にしたい。

p.s. 連続的同一性である言語依存的自我であるが、これは、自己中心的ということである。換言すれば、自己盲信的、自己狂信的、パラノイア的ということである。現代では、ブッシュが最たるものである。小泉も負けていない。そう、将軍様もいた。父権的権力は、狂気なのである。ドゥルーズは女性、子供、動物への生成変化を勧めていた。そう、それはゆらぎに生きるということである。ゆらぎとは不連続的差異を認めるということである。ライブドアホリエモンは、ゆらぎから差異資本を見ているのである。


[不連続的差異論] 不連続的差異、特異性、連続性:試論1


身体とはメディア界であると仮定して、考察していきたい。すなわち、身体には、一方では不連続的差異が存し、他方では擬制連続態(体)が生起していると見るのである。擬制連続態は原分節性をもつだろう。すなわち、感覚(器官)という原分節性である。ここは微妙な領域で単純に感覚=原分節ということではない。すなわち、感覚自体もメディア界であり、不連続的差異の側面をもつということである。だから、感覚=メディア界はゆらぐのである。一方では言わば、ばらばらの、多種多様な不連続的差異=知即存在が併存しているのに対して、他方では、連続的な「表象」が言わば群集しているのである。これはまことに不思議な事態である。意識ないし自我の発生については、母親の問題を介さなくてはならないが、それは後で検討することとして、今は感覚=メディア界の問題をストレートに考えたい。
 このゆらぐ領域である身体感覚は、連続表象を捉えようとするだろう。すなわち、知即存在である差異=イデアは、連続表象を知識化しようと試みるだろう。最初は、イメージであり、音声であったろう。その後、文字言語が登場する。これはそれほど古いことではない。楔形文字。とまれ、差異=イデアは、言語を創造して、連続表象を知覚して知識化するのである。しかしながら、この状態でも、原個体(まだ個体にはなっていないのであり、多元的存在である)は、ゆらいでいると見ることができよう。しかしながら、連続化は進展すると言える。これは、思うに、特異性があるからではないだろうか。不連続的差異という特異性が、ここで作用していよう。もちろん、複数の不連続的差異があるのではあるが、それは、連続化においては、単体の特異性を形成するだろう。この特異性の駆動が、連続化を進展させると思う。個として、特異個として連続化するのである。言語は、一般形式であるが、矛盾しつつ、個において、言語連続化するのである。これが、現象を分節化して、通常可視の世界を形成すると考えられる。
 さて、問題は複数の不連続的差異が単体化することである。これは、個、特異個、そして自我の問題に関係する。どうして、複数の不連続的差異が単体化するかと言えば、もちろん、連続表象が成立しているのだから、その同一性に同化することから生起すると考えることができる。(ここが母子の問題に関係するのだが、後で検討する。)もう少し丁寧に見ていこう。複数の不連続的差異と連続同一性の表象の両面がある身体感覚において、知即存在の不連続的差異は後者へと同化する面をもつだろう。しかし、ゆらぎは残っていることに注意しないといけない。なぜなら、メディア界を無くすことはできないからである。すなわち、複数の不連続的差異は一面では連続的同一性化して、単体、特異個、自己となるのである。しかし、連続的同一性という様態をもつ。そして、連続的同一性となった単体、特異個、自己が自我であろう。「わたし」、コギトであろう。だから、自我は分裂しているのである。一方では、特異性(不連続性)であるのに、他方では連続的同一性である。ここは、デカルトやカントの問題領域であろう。とりわけ後者の。ここは微妙な領域である。整理すると、ここには、


1.複数の不連続的差異
2.単体となった特異性である不連続的差異(特異個)
3.連続的同一性である自我


の3つの要素がはたらいているのである。ここでニーチェの哲学を考えると、1と2によって、3を解体するのである。つまり、ニーチェ哲学とは、すでに脱構築哲学である。「ポストモダン」、「ポスト構造主義」である。考察を続けよう。2について、もう少し検討しよう。たぶん、1の不連続的差異が、連続表象の原分節性へと「自己」を合わせると考えられるのである。すなわち、複数の不連続的差異が、連続表象という原分節の枠、形式、「形相」に「自己」をいわばなぞらえるのである。それは、カントの超越論的形式に相当しよう。複数の差異が、いわば単体である形式に、すなわち、一般形式に「自己」を注ぐような感じになるのである。(ついでに言うと、この一般形式、原型、超越論的形式が、マルクスの価値形態論の形式でもある。貨幣形式である。)すなわち、この形式には、複数の差異が内包されているのであり、それが単体的特異性の意味である。つまり、内容が複数の差異であるものの、形式化という単一性化を受けて、単数化されて連続化されるのである。だから、この形式は、特異性をもつのである。すなわち、実体は、複数の差異であるが、単一化という様態をとっているのである。この複数差異の単一的形式化を私は特異個と呼んでいると考えられるのである。整理すると、2つの特異性があると考えることができる。イデア界の不連続的差異という特異性が先ずある。というか、これが特異性ないし特異点そのものである。これが連続的同一性=単一形式化においても作用しているということである。だから、2つの特異性ではなくて、一つの特異性が正しいのである。ただ、後者においては、特異性が連続化を被っているのである。だから、後者はパラドクシカルな「境界」、契機、「メディア」である。
 さて、これで2の特異個の問題が済んだので、3について考察しよう。これはもう簡単である。2からすぐ答が出る。すなわち、連続的同一性=単一形式化された差異は、差異自身を排出するようにして、自我となるのである。見方を換えると、ゆらぎを排出するようにして連続的同一性=単一形式性に同化するのである。この排出を精神分析は抑圧ないし排除と呼んでいる。これは私見では、父権制の問題でもある。あるいは、近代西欧的自我の問題である。ゆらぎ、ないし不連続的差異性、特異性を排して、連続同一化するのである。ここで、この連続同一化の強力な規制が作用していると見ることができる。すなわち、2から3への移行にはなんらかの飛躍があるのである。なぜ、ゆらぎを排して、連続同一性化へと展開するのかが問題である。ここにはなんらかの錯視、誤謬、虚偽がある。(この問題に関しては、鎌野重義氏の「乖離の現象学」で、綿密に論じられている。)すなわち、2のままで、連続同一化は可能であるはずであるし、その方が、真実・真理である。ゆらぎを排することは、一種偽りである。
 長くなったので、続きは別の記事にする。


[経済] ライブドアのビジョンはこれで分かる?

http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2005/03/post.html



[不連続的差異論] 不連続的差異と特異性


今は余裕がないので簡単に触れよう。イデア界の不連続的差異は、現象界では、擬制連続化の他に、特異性になると思っている。擬制連続化とは、メディア界で生じることである。メディア界での差異「零化」によって生起する。そして、自我は、連続態であり、感覚を自我・連続化して知覚する。つまり、連続同一性・言語秩序化する。すなわち、感覚が自我的連続化されるのである。しかるに、感覚自体は、経験・体験自体は、特異性であると私は思うのである。前のブログで述べたこととは逆に、感覚が特異性で、感覚知覚が個体性・連続性であると思うのである。感覚は感覚感情欲望と言ってもいい。これが特異性である。確かに擬制連続化を受けているが、感覚を形成する差異と差異との交通には、差異の「感覚」があるのではと思う。即ち、不連続的差異が感覚には働いているのではと思う。ここは微妙なところで、もっと精緻に考えなくてはならない。つまり、メディア界の擬制連続化をどう捉えるかの問題である。例えば、棘を刺して痛いと感じる。バラの棘である。この痛覚は、何か。確かに、痛覚は、感覚一般に入る。しかし、痛いと感じた事象自体は、特異性である。その人以外の誰もそれを感じないものだ。この特異性感覚は不連続的差異と関連すると考えたいのだ。痛覚自体である。カントの物自体と通じると思う。「痛い」とは、感覚自体であり、それは差異共立構成態であり、それは、イデア界とメディア界の境界であるので、不連続的差異に近いものである。だから、より正確に言えば、「痛い」という感覚は、メディア界的であり、イデア界に接しているのだ。ここには、不連続的差異性があると思う。「痛い」という特異性は不連続的差異に通じていると思っている。まとめると、知覚は擬制連続化ではあるが、感覚はメディア界的でイデア界の不連続的差異に通じているということである。換言すると、感覚においては、不連続的差異の知即存在が「感覚」していると思う。この不連続的差異の絶対性が擬制連続態である現象界においても、感覚の特異性として発現していると思われるのである。この感覚の特異性を文学ならば、ドストエフスキーが『地下生活者の手記』で、哲学ならばニーチェが説いていると思われる。哲学一般では「これ性」の問題であるが。唯名論に近いだろう。不連続的差異論は、またこの問題を解決しているように思われるのだが。後でもっと詳しく見ていきたい。


[叡智学] 差異とは何か、また90度回転とは何か等


不連続的差異論から、現象は擬制的連続態であることが判明した。しかし、そうであっても、個体の感情は擬制的であると言って済ますわけにはいかない。例えば、あなたの肉親が、病気であった場合どうだろうか。もちろん、常識的なレベルで述べているのであるが。そこで、私が考えたのは、擬制連続態であっても、個体は、差異を感じるのであるということである。空腹の場合、それは確かに擬制連続態が感じていることではあろう。しかし、他面、個として、つまり差異として感じることでもある。ということは、感覚感情は二重であるということである。一方では、感覚であるが、他方では、感覚的知覚であるということだ。だから、ここにおいて、感覚と感覚知覚の差異がある。前者は単に動物的である。しかるに、後者は、「人間」的である。この後者の人間的知覚は個体的というよりは、単独的なものであろう。すなわち、特異性としての個を感じているのである。動物的個体は、個別性として感じるのではと思う。では、特異性としての知覚とは何かである。それは、イデア界の差異の知覚につながるものではないか。ここでの問題は、メディア界の解釈である。(この後は、後で)
コメント


[経済] “見えない経済大陸”に挑むライブドア


http://coinkun.cocolog-nifty.com/coin/2005/02/post_20.html