イデア界の意味:差異の対話と個の経験

[叡智学] イデア界の意味:差異の対話と個の経験


前の問題すなわち、何故イデア界は螺旋運動するのかということに完全には答えていなかったので、ここで、検討を続けよう。それは、前の叙述でほぼ見当がつくことであるが、結局、差異・イデアが個化し、知即存在を質的に発展させることである。つまり、現象化することで、差異・イデアは智的障碍を受けるが、それでも、現象化することで、個へと進展しうるのである。これは、知即存在、差異/強度の発展である。だから、イデア界/メディア界/現象界とは三位一体ではあり、各界が独自の意義を有するのである。とまれ、イデア界の現象界的展開が個化への意味をもつと言える。それは存在のパラドックス化であるが、イデア界の進展と言える。結局、整理すると、イデア界の進展として螺旋運動が生起すると言える。
 では、差異の対話とは何か。それは、現象界における自己の無明を打開する叡智・智慧の方法である。無知の知である。それは、他者、他者という差異を介して、自己の差異を知るということだろう。他者、他者という差異を学び、自己の差異を進展させることだろう。これが差異共創である。あるいは、連差異(大岡信氏の連詩に倣って言えば)である。そして、ブログとは、このようなITのメディアである。差異共創、連差異のITメディアである。とまれ、差異の対話は、個、差異の進展のために必須である。これをなくすと個が自我として閉塞し、腐敗するのである、現代日本のように。差異のダイアローグ、コミュニケーションの喪失は、自己完結して、旧慣墨守・保守反動となる。フジサンケイグループはこのようなものであり、ライブドアホリエモンは差異のダイアローグ・エコノミーをもたらさんとしているのである。差異共創資本経済である。


p.s. 健全な市場経済とは差異資本の対話・共創性に存するだろう。ところで、私の考える、共差異資本経済とは、このような差異資本の対話・共創性と、差異共生性との相補性をもつものであるから、共創共生差異資本経済と言えるだろう。略して、共差異資本経済であろう。


p.p.s. 結局、輪廻転生とは無いであろう。つまり、個の部分は、擬制連続化によるのであるから、死去した場合は、個体の部分は解体して、差異・イデアが残るのである。だから、イデア界に回帰すると言える。しかし、新たな生とは、イデア界からの新たな擬制連続的個体であり、まったく不連続である。映画『惑星ソラリス』(タルコフスキー)で、夫クリスの「脳」ないし潜在意識を読み取った一種知的生命体である惑星ソラリスは、亡くなった妻ハリーのコピーを反復的に生成する。思うに、この惑星ソラリスイデア界を象徴していると言えよう。夫クリスにある記憶ないし潜在記憶とは、亡妻ハリーの擬制連続体の記憶に過ぎないだろう。現象界の記憶である。それは、いわば仮象、夢幻的なものである。ということで、個体とは、メディア界的であるが、現象としては、いわば幻影的である。では、幻影としての現象と個の経験・体験はどう関係するのか。幻影が苦痛・苦悩を味わっているのか、辛酸をなめているのか。苦悩とは何か。それは幻影に過ぎないのか。グローバリゼーションによる苦とは、幻影か。ここはきわめて重要というか存在の核心的問題である。
 結局、個とは何かが重要である。私は特異性と言っている。特異個である。これは、イデア界に発しているものである。イデア界のイデア・差異が特異性となっているのである。だから、個ないし個体の苦とは、単に現象界的心身経験には限定されないと言うべきである。つまり、差異・イデアが苦悩しているのでもある。特異性=普遍性が苦悩しているのでもある。単に身体が故障しているのではない。これは精神疾患でも同様だろう。イデア界の苦である。だから、個の苦とは幻影の苦ではない。確かに幻影の苦も入るが、それ以外にイデア界の苦があるのだ。なぜならば、イデア界の現象化において、不都合・不具合・不幸が生じているからである。本来は、現象化、個化とは、喜ばしいものであるが、それが否定されるのである。イデア界の現象化は、いわばエデンの園化である。しかるに、追放である。現象界化において不具合が生じたのである。それは、父権制化=自我主義化と言っていいが、バランスが崩れたのである。この不具合が苦である。イデア界的苦である。ということで、苦とは単に幻影的なものではない。個体とは幻影であり、同時に真実在的である。だから、人間とはイデアのコピーではあるが、本体はイデア=普遍性である。人間は、イデアとしては同一であろう。等価である。ここにイデア的民主主義がある。