時空四次元体と太陽系コスモス:イデア・メディア・現象の意味

獣帯人間

[不連続的差異論] 時空四次元体と太陽系コスモス:差異/強度コスモス


時間/空間という現象形式の発生についてであるが、それは、メディア界における差異/強度の「擬制連続」性に拠るのだろう。すなわち、「連続」化された差異/強度の形式が時空四次元体を構成するのだろう。カントは、この形式を主観においてのみ説いただけであった。この差異/強度の形式は主観と客観、主体と客体の両者を規定ないし規制するものである。これで、いちおう、時間と空間の発生の問題は済んだとしよう。
 次に、「連続」的差異共立構成態である太陽系システムないし太陽系コスモスについて検討してみよう。(思うに、「現実離れ」していると思われるかもしれないが、しかし、差異が自由になるためには、人間や存在を規定している諸力を認識尽くさないといけない。それによって、連続的反動同一性の現象界・「現実」を差異化することができるのである。差異=自由化である。連続反動同一性である民族国家資本から差異共立資本へと変容することとある意味でパラレルである。)よく東洋の伝統思想で、天地人と呼ばれるが、正に太陽系差異システム、太陽系コスモス、太陽系差異共立構成態は天地人性に当たり、さらに精緻に説明するものである。すなわち、太陽系において考えると、差異/強度という共立態はメディア界的構成素・イデアであり、このイデア天地人を構成しているのである。だから、「天」と「地」と「人」は一如である。しかし、「天」が「地」と「人」に影響するという考え方(天命、天啓等)は、迷信というか誤謬である。そうではなくて、メディア界の差異共立構成態であるイデアが動力源である。古代宇宙論や占星学のマクロコスモスとミクロコスモスとの照応の思想はこの点で誤りである。メディア界のイデアが規定するのである。
 では、人間の心身を規定する差異・イデアの構成はどうなのであろうか。差異/強度が規定する構成態ではある。まだ詳論はできないが、ごく基本的な構成について見ると、「自己」ないし「知・精神」とは、差異/強度の強度が起因ではないだろうか。なぜならば、強度は差異と差異との「通信・交信」を行うものであり、「知・精神」にふさわしいと考えられるからだ。だから、「自己」や「知・精神」とは、太陽系で言えば、太陽とつながるものであろう。(思うに、父権制とは、これが肥大化したものではないか。また、ここで注意すべきは、差異/強度はいわば無意識であるということである。潜在意識である。)それに対して、差異の要素は、「身体」であろう。これは月の差異である12分割性を内蔵していると思われる。また、当然、太陽系の他の惑星の差異を内在していると考えられる。すると、身体は、太陽系惑星的差異的身体となる。だから、心身で、太陽系差異/強度的イデア現象と考えられる。つまり、心身は、太陽系イデアを内包・内在しているということである。これが、「天地人」や「占星学」の本当の意味であろう。結局、問題は、メディア界の太陽系イデアにあることになる。あるいは、イデア界における差異の分布にある。現象は螺旋運動ないし渦動することが判明した。それは、本源への回帰運動である。(宇宙全体も螺旋運動ないし渦動していると考えられる。螺旋宇宙・渦動宇宙である。)人間も地球もそうである。ここで、まったくの作業仮説を立てると、差異/強度の12分割があり、これが1サイクルを構成し、還流するとは、螺旋的回帰ということではないか。すなわち、差異/強度が多様に12分割される、すなわち、それぞれの分割は多種多様な差異/強度性をもつ。そして、これらを貫流・環流して、螺旋的に回帰する。では、問題は、このイデアの運動の構成とその意味である。
 思うに、イデア界とは絶対不変の世界なのだろうか。極論すると、イデアつまり不連続的差異もメディア界を介して螺旋運動するということだろう。ならば、イデア界自体の発展があるということだろう。(ここで、ふと、プラトンの善のイデアを想起した。イデアイデアである善のイデアである。)私はイデア・差異を知即存在と想定している。ならば、思うに、イデア界の螺旋運動とは、究極的な知即存在を目指しているのではないだろうか。また、ならば、そのようにして「存在」があるというのはどういうことなのだろうか。これは予め目的化されたものではないだろう。プログラムがあることではないだろう。そのように考えるのが、ライプニッツ哲学である。予定調和である。あるいは、華厳経である。それは違うと思う。初めに、差異ありきである。差異と差異とのが共存するイデア界があったのである。それが、いわば内発的に螺旋運動を成したのである。そう、初めに差異と差異との対話ありきではないか。このとき、イデア界は螺旋化することになったのではないか。差異は差異と出会うことに喜びを覚えたのである。その不思議があったのである。閉塞した差異、「モナド」ではなくて、対話する差異である。ここに出発点があるのではないか。差異の永遠の対話(ディアレクティケー)・ポリフォニー。では、どうして差異は対話することになったのか。そう、対話の「光」=「智(ソフィア)」があったからではないか。どこかで、「目(眼・芽・女)」が開(啓)けたのである。他者、差異を知ることで、自己の差異を知ったと思う。ここから、差異共生が生まれてくるだろう。プラトンの知識論は想起説である。かつて先験的に知っていたことを想起するという考えである。連続的な現象界では、自己は自我となり、迷妄・無明の境にある。イデア界において自己の差異は叡智をもっていたのだろう。差異の叡智である。差異の智慧である。しかし、メディア界を通して、連続化して、現象化し、愚鈍・悪化する。無明である。(仏教はこの機微をよく捉えているのだ。)問題は、このような叡智・智慧の喪失がどうして起こらなくてはならないのかである。必然と言えば、必然である。90度回転があるからである。思うに、イデア界の叡智・智慧とは異なる「知」があるのである。つまり、知即存在の差異の「知」とは異なる「知」があるのである。そのような意味を現象化はもつのではないか。それは、経験知、実験知ではないか。個の身体、個の心身において、「知」を得ること。あるいは、個の身体、心身において、現象界において、「知」を実践すること。「知」と実践である。これは、イデア界では得られない。では、個とは何かである。デカルトはコギトと言った。しかし、この点ではスピノザが正しい。心身としての個である。個としての苦痛・苦悩・歓喜・満足等々。これは、特異性、差異である。これが、正に、個の証明である。つまり、個の経験・体験・実践とは、連続/不連続から発していると言えよう。連続化された現象界に「存在」しているから、多様な心身経験を得るのだ。イデア界は「歓喜天」であろう。エロースの世界であろう。涅槃・ニルバーナ。そう、いくら仮象とは言え、苦痛は苦痛、苦悩は苦悩、空腹は空腹である。色である。そう、色の意味が重要である。色で生きているのだ。この色に不公正であるから、怒るのだ。色の公正さ。感覚知覚の意味。それは、イデア界では味わえない。これは現象界の「味」である。これを仏教は乗り越えようとした。しかし、それは間違っている。味は味である。思うに、個とは、イデア界と現象界のパラドックスを生きる存在なのだ(キルケゴール)。ここに、生の意味がある。この色において、イデア界と調和させること。つまり、イデア界の現象化であり、現象界のイデア界化である。これは、メディア界的あり方であろう。現象人であり、イデア人であるメディア人として存在すること。両界の交通・交信に生きること。このために、民族国家資本経済ではなくて、共差異資本経済へと変換する必要があるのだ。

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