太陽の発生のシステムについて:試論2

[叡智学] 太陽の発生のシステムについて:試論2


この問題を、ODA ウォッチャーズ氏の「相補性についての序論と『差異エネルギーの保存則』」というタイトルの考察を参考にして、再検討したい。
http://kaisetsu.ameblo.jp/entry-4d17be44495cc08f1fa9fb54794e5121.html
差異共立構成態が、イデア界のいわば縁のメディア界に存するとしよう。そして、境界零度によって、この共立態が、現象化する。たとえば、この差異共立構成態を太陽系のイデアとしよう。このイデアは、差異保存則が適用されるだろう。つまり、ポテンシャルな強度・エネルゲイアをもつとしよう。そして、これが現象化されて太陽系となる。これは、順列エネルギーの現実・具体化であり、当然、反作用として、差異共立構成態へと回帰しようとして、螺旋的運動をするのではないか。つまり、太陽系は、円(楕円)運動ではなくて、螺旋運動をしているのではないかと考えられる。ここまではいいだろう。
 では、太陽の発生はどうなるのかである。差異共立構成態は、差異と境界で構成されるのであり、境界が零度になると、差異と境界とがいわば凝縮して、連続態としての現象となるだろう。そう、このとき、差異の境界部分が太陽となるのではないか。そして、差異が惑星等となるのではないか。思うに、境界が核、芯になるのではないか。メディア界ないしイデア界では、差異と境界は、いわば隣接していたものである。しかし、現象化において、境界が中心となって差異が凝縮・集約されるのではないか。ここで、境界の強度が過大なものであると、差異は、境界に吸収されてしまい、惑星が生じないのではないだろうか。また、境界の強度が微弱だと、差異はそれに牽引されずに、差異自体の「力」で運動して、惑星とはならないのではないか。例えば、彗星のようなものになるのではないか。あるいは、宇宙空間に浮遊漂流する星間物質のようなものに。だから、太陽系が生じるには、境界強度と差異とのある均衡が必要であると考えられるのである。このバランスが、すなわち、境界と差異との強度のあり方が重要である。そして、発生した惑星は、境界である太陽の引力と均衡をとり、螺旋的な運動をしているのではないか。それが、円運動に見えるのではないか。今はここで留めておこう。
 さて、最初の順列エネルギーと差異共立構成態の関係であるが、メディア界に存している差異共立構成態がポテンシャルなエネルギーをもつのであり、それが、現象化・外化して、ポテンシャルなエネルギーがマイナスとなったのであるということだろう。問題は、エネルギーや強度の捉え方である。ポテンシャルなエネルギー・強度とは何か。それは、差異境界の「力」ないし「力量」のことだろう。それが、現象化によっていわば実数化されるのではないか。物質的エネルギーへと変換されるのではないか。差異境界強度を虚数とすると、それが実数化されるのではないか。虚数虚数化、つまり、i×i=−1となること? これが捩れを生むということか。つまり、実数化したために、捩れが生じて、これが、螺旋運動を生むということになるということだろう。では、虚数エネルギーと実数エネルギーはどういう関係にあるのか。実数化とは、順列エネルギーの消費であろう。だから、保存則から、生産というか贈与が必要となろう。つまり、また虚数エネルギーに戻るということではないか。つまり、メディア界の差異共立構成態へと回帰することではないか。花ならば、花のイデアに回帰するということではないか。(ちなみに、朝顔の蔓は螺旋であり、また樹木の幹の皮の紋様も螺旋的だと思う。)花のイデアに回帰するとは、物質的には種子に回帰することであるが、これは、実は、花のイデア界を内包・内在しているのではないか。人間ならば、人間のイデアに、というか、個のイデアに回帰するのかもしれない。特異性としてのイデアに回帰するのではないだろうか。ずいぶん脱線したが、結局、メディア界に虚数のエネルギーがあるということだろう。これが強度であろう。そして、これが現象化して、実数のエネルギー(E=mcc)になるのだろう。ここでは、強度は感知されない。それは、メディア界にあるからである。そして、実は、実数のエネルギーとは、虚数のエネルギーに駆動されているということではないか。それが、螺旋運動ではないか。この虚数のエネルギー・強度が現象界では、測定されないということだろう。つまり、差異境界強度が複素平面をいわば移動して、現象化が生起するのであるが、実数界である現象界において、実数部分(物質エネルギー)を測定するのであり、現象を真に駆動・生起させている複素平面すなわちメディア界の強度を捉えていないということとなろう。生物学は、生命の発生を遺伝子に見ているが、その遺伝子を真に動かしている強度を捉えていないということになろう。DNAは、実数エネルギーに過ぎないのである。しかし、遺伝子は、メディア界の強度、差異境界強度が作動させているということになるだろう。ここで、少し飛躍すると、「気」というものは、強度であろう。また、量子についてだが、それは、差異と強度の共立態のいわば最小に近い「知即存在」であり、メディア界的存在としての振る舞いに近いものを現象界で示しているのではないか。すなわち、差異/強度的な「知即存在」であり、差異の側面が粒子であり、強度的側面が波動ではないか。しかし、それは現象界での側面に過ぎないだろう。本体は、メディア界の差異/強度的「知即存在」であろう。あるいは、単に、差異/強度的存在と言ってもいいだろう。これは現象界の物質概念では理解・把捉できないのである。

p.s. 時間と空間の問題であるが、カントは、主観的な超越論(先験)的形式によって構成化したが、物自体を残してしまった。今、メディア界論から見るならば、時間と空間とは、正に差異/強度の産物と言えよう。差異/強度とは、差異/境界強度と言うことであり、これが、原時空間のイデアではないか。つまり、差異と境界ないし強度とは、連結しているのである。つまり、差異強度即強度差異である。差異と強度のいわば共立態である。これは、ある意味で不可分である。差異は差異と境界強度で関係する。差異は原空間であり、強度が原時間と言えるかもしれない。とまれ、本来はそれらは一如である。つまり、境界零度になったとき、いわば、差異と強度が分離・乖離すると言えるのではないだろうか。すなわち、差異は連続化されて、物質となる。これが空間化である。しかし、同時に強度は物質エネルギーとなって、時間となるだろう。しかし、時間は強度の表象に過ぎない。カントの物自体とは、差異/強度のこと、メディア界の差異共立構成態のことだろう。
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コメント
ODA ウォッチャーズ (2005/02/27 12:27:17)
この項目の趣旨と関連して、 『境界の存在形式についての序論』と題しまして、 
http://kaisetsu.ameblo.jp/entry-1b7b3f9310cf1dedfb1d6cf47d729c2c.html
で、『イデア界とメディア界』との境界について考えて見ました。