太陽の発生のシステムについて一試論

星月夜

[叡智学] 太陽の発生のシステムについて一試論


差異と光(境界)が相補性をもつという仮説を基礎にしてさらに考察を展開しよう。ここで、差異共立態ないし差異共立構成態を中心に考えよう。すなわち、http://blog.melma.com/00122700/20050226060719の考察をベースにしよう。境界(「光」)を介した差異連結が差異共立態ないし差異共立構成態である。(これは、ODA ウォッチャーズ氏の説明では、差異の順列ということになろう。cf. http://kaisetsu.ameblo.jp/entry-4d17be44495cc08f1fa9fb54794e5121.html
 では、太陽はどうやって発生するのだろうか。今朝、明るい朝日の照らしを浴びて散歩したのであるが、道路工事の労務者たちが仕事をしていたが、若い労務者は、傍若無人に突き進んだり、彼らは太陽のほんとうの強度を喪失しているようである。D.H.ロレンスは「日輪とともに始めよ」と予言した。また、ゴッホも日輪を強度的に表現した。そう、日輪である。日輪は単に物質的な存在ではない。ここには、イデアの太陽があると思う。それを、古代人は「ひ」として崇めたのであろう。卑弥呼・日巫女である。アマテラスである。大日如来である。阿弥陀如来である。ご来光である。御水取りである。もっとも、ここでは、宗教的な意味ではなくて、不連続的差異論から「日輪」を解明したいのである。
 差異共立構成態にもどると、これが、現象のイデアである。では、どこに日輪、太陽があるのか。境界的に連結している差異共立構成態であるのだから、太陽の根源は、とりあえず、境界にあると考えられよう。つまり、境界が凝縮したものが太陽ではないか。境界零度である。つまり、ある差異共立構成態が現象化するとき、境界が太陽に変換・トランスフォームすると考えられないだろうか。そして、その差異共立構成態の差異は例えば、惑星となったりするだろう。つまり、この場合、差異共立構成態とは、太陽系のイデアである。また、もっと拡大して、銀河系を考えるならば、銀河系の差異共立構成態・イデアがあり、そのイデアの内部のイデアとして、一つの太陽系イデアがあると考えられよう。銀河系の「大」差異共立構成態とは、「小」差異共立構成態の共立構成態と考えられよう。(ここで、ついでに述べると、宇宙発生のビッグバンであるが、それは、イデア界のほぼすべての差異・イデアが境界零度で連結して現象化したということではないだろうか。また、思うに、宇宙は、インドの宗教・哲学が説くように、生成消滅を反復すると思う。宇宙も「生きている」のである。そう、占星学とは本来、この宇宙の生成消滅のシステムを説いたもののように思えるが、今日、運命占いに、堕してしまっているのである。ここで、ジョセフ・キャンベルの『神の仮面』の東洋神話の巻・未翻訳http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/0140194428/qid=1109431301/sr=1-1/ref=sr_1_1/103-1361164-3352649?v=glance&s=booksが参考になろう。)そう、ここで渦巻星雲が考えると、これは、やはり、ODA ウォッチャーズ氏の考えを借りると、「差異エネルギーの保存則」からの一種の「エネルギー放出」の動きではないだろうか。つまり、渦巻星雲の差異共立構成態は順列エネルギーをもつのであり、保存則から、それは、エネルギー放出として、いわば螺旋状になるのではないだろうか。これについては、後でさらに検討したい。
 さて、太陽系にもどると、太陽系差異共立構成態・イデアがあり、この境界・「光」が収縮凝縮集約収斂して太陽になるということである。そして、差異(これも差異共立構成態ではあるが)は惑星となるのであり、ある差異が地球惑星ガイアとなったのである。さらに敷延展開すると、地球的自然、鉱物、微生物、動植物、人間も差異から形成されたのである。だから、思うに、境界は太陽である。つまり、現象の境界とは太陽ないし光であり、太陽ないし光を通して、万物は交通しているということになろう。「光通信」である。つまり、万象は差異と光の結合による産物である。そして、光が特化的に凝縮して太陽となったのではないか。そして、自然、人間は差異と太陽から形成されているということであり、内在的に、差異と太陽をもっているということではないか。だから、古代人が日輪を崇め讃えたのは正しいのである。つまり、人間に内在する太陽(正しくは、光であるが)が、外在する太陽と呼応しているのである。太陽が太陽と触れ合っている(太陽の双方向コミュニケーション)のであり、それは、はるかなる原郷であるイデア界に接しているのである。そう、沖縄人のニライカナイへの思いとは、また、折口信夫の「妣が国へ・常世へ」とは、このことではないか。存在の原郷・母胎であるイデア界への思慕である。ということで、いちおうここで留めよう。


cf. 「物理が自然法則に支配されているのならば、人間的自由は倫理(道徳)に支配されているとカントは言う。星辰は厳然たる引力の法則で支配されている。地球は太陽の周りを回っていると言うが、宇宙空間の同じ点を通過するわけではなく、螺旋状に太陽の進行方向を追いかけているので、同じ空間上の点は、二度と過去にも未来にも通らないそうだ。」http://www.chiiku.com/sample.htmから

「驚くべきことが二つある。一つは星辰と一つは我内なる道徳律である。」という有名な『実践理性批判』の一文。http://hp1.cyberstation.ne.jp/tetsugaku/nichidaitetsugakucafe1_040.htmから


p.s. そう、今、田舎にいるので、夜道、オリオンやシリウスやおそらく火星等の壮麗な大宇宙が目に入り、すっとした気持ちになる。なぜ、人間は宇宙に引きつけられるのかと言えば、もう言わずもがなであるが、やはり、銀河は宇宙は、メディア界を表現して、イデア界を示唆しているのである。そう、宇宙の果てには、大イデア界があるのである。多くの芸術家、アーティスト、詩人、宗教家、哲学者、そして、普通の人が宇宙を憧憬するのはここに発する。そう、宇宙、星辰とはメディア界であり、それを見ることで、イデア界に触れるのである。宇宙・星辰とは、イデア界の鏡である。


画像は以下から
http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/G/Gogh/Gogh.htm