「差異と光のコンチェルト」へのODA ウォッチャーズ氏のコメント等

「『見えないものを見る』という存在形式


テーマ:不連続的差異論


素晴らしいです。私の認識と一致します。ガタリドゥルーズも、この手前までは来ていたが、最後の扉を開けれなかった。聖書の、「始めに光ありき」も、まさに、「イデア」と「メディア」の記述だと思います。本当に不思議で、驚くべきことは、非常に簡単なメッセージの交換で、『不連続的差異』の存在形式が、具体的に迅速に明らかになってきていることです。現在の所、世界で二人しか、この理論を正確に認識していないと思われる状況で、この緻密で複雑で、高度で広範囲な知識を必要とする理論が、ドンドン前進していくこと、これこそ、『神の手』を信じるしか、方法が無いようにも、思われるのです。アインシュタインの「神はサイコロを振らない」と言う言葉を、一寸、違う意味ですが、受け止めざるを得ない気持ちです。1/4回転は、重要だと思います。これは、複素平面上の、丁度、直角を意味します。X-Y-Zの異なる軸で考えると、それぞれに、1/4回転(虚数の「i」の回転)を行えば、螺旋状の捩れを生じます。これが、所謂、モーメントで、情報のモーメントも、物理上のモーメントも、同じ構造を持っていることが、DNAの二重螺旋構造から類推できると思います。捩れることによって、在る局面から見ると回転しているように見えるし、在る局面から見ると直進しているようにも見えるし、遠くから見ると『不動』のようにも見えるし、揺れているようにも見える。この見え方が、存在形式だと思います。ここで、見え方と言ったのは、現象界の言葉を使っているからで、実際の視覚を意味しません。それは、禅語的に言えば、『見えないものを見る』という形の『見る』です。そこは、「色即是空」「色不異空」。境界は、「ゼロ」が「無限」と同居する世界である。
ODA ウォッチャーズ

(参照)
http://blog.melma.com/00122700/20050226060719

(参考)
イデア界の身体とは何か」のコメント補足
http://blog.melma.com/00122700/20050220145650
のコメントをペーストします。

コメント
ODA ウォッチャーズ (2005/02/21 00:13:41)
イデア界の身体』、大変に興味をそそる提示です。私は、それは、『イデア』の影、残像のような存在形式ではないか、今の所、考えています。例えば、一列に並んだ、電球が、順番に点滅する場合、私たちは、そこに、動き、ムーブメントを感じますし、そこに、何等かの物体、媒体の存在を仮定します。しかし、それは、無いのです。電球は、離れており、離れているから、離れている箇所に、動きが生じ、動き自体は、本当は無いのに、そこに、何かが在る、と考えるように、人間の認知形式が構成されているのです。この認知形式が、何処から来ているのか、それを、『宇宙』『神』『イデア界』と仮定してみることが、『プラトン』の発明でしょう。だから、不連続的差異論から見ると、『イデアの身体』は、『メデイア』によって、成り立っていると、まず、考えられるように思うのですが、如何でしょうか。つまり、メデイアにも、『強度』がある、いや、メデイアだからこそ、強度が在る、スピードがある、力が在る、と考えられます。
ODA ウォッチャーズ (2005/02/21 00:17:27)
そして、その強度、力、スピードは、掴めようとすると、消えていき、無いように思うと存在する、やはり、不連続的差異論でいう『メデイア』の振る舞い、そのものなのです。ルネ・マグリットなどの天才が、指摘している存在形式です。
philosopracticer (2005/02/21 09:07:40)
この問題は後で、再検討したいと思いますが、かなり複雑な問題ではないかと思います。スピノザ哲学の思惟と延長は、メディア界の規定ではと思います。しかし、イデア界は不連続的差異であり、それが、思惟/延長の二元論として発現するのでしょう。だから、思惟も本来、不連続的差異の共立態であり、延長も同様でしょう。ここまではいいでしょう。
philosopracticer (2005/02/21 09:08:45)
問題は、この不連続的差異とは何なのかということです。思惟の元の不連続的差異とは、延長の元の不連続的差異とは。今の推論ですが、知即存在としての不連続的差異・イデアであり、それが複数存在するということではと思います。もし、このようなイデアが一つだけしかなければ、一元論、一神教的になるでしょう。だから、多元的不連続的差異・イデア論ということではと思います。複数、多数の不連続的差異・イデア。これが無数なのかはわかりません。先に、イデア界を三元論としましたが、しかし、三元論はやはりメディア界的だと思います。
philosopracticer (2005/02/21 09:09:39)
結局、イデア界(多元的不連続的差異)/メディア界(三元論ないし心身平行論)/現象界(二元論)となるのかもしれません。
ODA ウォッチャーズ (2005/02/23 00:25:08)
イデア界(多元的不連続的差異)/メディア界(三元論ないし心身平行論)/現象界(二元論)』は、鋭い御指摘だと思います。境界の区分を、『元』と考えた場合、『現象界』は、平面を二つに切る線にyる、二分割概念の反復のような振る舞いをします。螺旋構造も、究極的には、同じだと思います。問題は、原点で、『原点は、分割する点とも言えないし、分割されている点とも言えないし、何かに属してもいないし、属してないとも言い切れない。つまり、メデイア界の振る舞いに似ています。


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私のコメントを以下にまとめます。

この問題は後で、再検討したいと思いますが、かなり複雑な問題ではないかと思います。スピノザ哲学の思惟と延長は、メディア界の規定ではと思います。しかし、イデア界は不連続的差異であり、それが、思惟/延長の二元論として発現するのでしょう。だから、思惟も本来、不連続的差異の共立態であり、延長も同様でしょう。ここまではいいでしょう。
 問題は、この不連続的差異とは何なのかということです。思惟の元の不連続的差異とは、延長の元の不連続的差異とは。今の推論ですが、知即存在としての不連続的差異・イデアであり、それが複数存在するということではと思います。もし、このようなイデアが一つだけしかなければ、一元論、一神教的になるでしょう。だから、多元的不連続的差異・イデア論ということではと思います。複数、多数の不連続的差異・イデア。これが無数なのかはわかりません。先に、イデア界を三元論としましたが、しかし、三元論はやはりメディア界的だと思います。結局、

イデア界(多元的不連続的差異)/メディア界(三元論ないし心身平行論または諸属性)/現象界(二元論)

となるのかもしれません。」


以下から
http://kaisetsu.ameblo.jp/entry-b524a276638b632e38dc59bf0a76fc94.html