差異と光のコンチェルト:差異と光の相補性

不連続的差異論から、生成のシステムを、これまでよりもさらに緻密に考察していこう。
 イデア界には、複数多数の、多種多様な不連続的差異が分布しているとしよう。そして、不連続的差異とは、それぞれ、知即存在というイデアであり、絶対的存在である。そして、それらは、境界によって区分されていると言える。しかし、境界(「光」)を介して、差異同士が連結するのである(いわば、「光」回線か)。すなわち、イデア界にいわばアットランダムに分布していた差異は、連結により、一種連続的な共立性(共立態)を形成する。しかし、ここにおいても、不連続的差異の不連続性は存している。とまれ、この共立態において、複数の差異が連結しているのである。記号化して、明快にしよう。


A. 差異1/差異2/差異3/・・・/差異n (イデア界)

         ↓


B. 差異1・差異2・差異3・・・・・差異n (イデア界/メディア界)


(差異とは不連続的差異のことである。)


AからBへの移行はイデア界で為されると考えることもできるが、メディア界で為されると見ることもできるだろう。これは、イデア界とメディア界の境界であるイデア面で生起すると考えられる。
 さて、Bの共立態においてどういうことが、実際生起しているのだろうか。以下は思考実験である。差異は知即存在である。そして、ここの共立態において、差異同士一種ネットワークを形成するのではないか。すなわち、差異ネットワーク(ガタリドゥルーズの術語で言えば、差異アジャンスマンないし差異アレンジメントである)が「組織」される。ここで、多種多様な知即存在である差異=イデアは、あたかも、シナプス状に、相互に連結するだろう(ここで、「リゾーム」、「欲望する諸機械」、「器官なき身体」を連想しても誤りではないだろう。思うに、ガタリドゥルーズの主導的概念は、この領域から取られたのではないか。ガタリのカオスモーズという概念は、推測するに、この領域を指しているのではないか。これは後で検討。)。すると、この共立態、アレンジメントは、知即存在の複合態ないし混成態(ハイブリッド)を形成する。ここに生起した「組織」は、複雑な知即存在となっている。思うに、有機体や生命体の原型はここにあるのではないか。とまれ、この差異共立態は、二重性をもつ。すなわち、一つは、この「組織」(いわばテクスチャー、テキスタイル、繊維態)は、それ自体の求心力をもち、もう一つは、差異が単独の差異へと回帰する遠心力をもつことの二重性である。いわば、「生」であり、「死」である。この「死生」の循環が差異共立態にはあるだろう。
 とまれ、この差異共立態は、また多種多様であろう。理論的には無限の「順列」・構成の可能性があるだろう。(差異共立態は、差異共立構成態と呼んでもいいだろう。)思うに、この多種多様な差異共立構成態とは、現象のいわば原型であろう。つまり、プラトンが主にイデアと呼んだものに相当するのではないか。たとえば、花のイデアである。混乱をさけるために、明快に区別しないといけない。イデア界に存するのは、単体・単独の知即存在の不連続的差異としてのイデアである。すると、イデアという用語で混乱する恐れがある。ここで明確に区別しておこう。イデア界にあるのは、不連続的差異としての単体のイデアである(差異イデア、単体イデア、原点イデア、単独イデア等々と呼べるだろう)。それに対して、差異共立構成態は、現象のイデアである(だから、現象イデア、物体イデア、複合イデア、感覚イデアとか呼べるだろう)。領域としては微妙である。単体イデアは、確かにイデア界に存しているが、複合イデアは、イデア界とメディア界の境界に存すると言えるだろう。(ここで、プラトンについて言うと、思うに、プラトン自身この区別を直観していた。善のイデアイデア界自体に当たり、個々のイデアとは、複合イデアであろう。因みに、コーラではあるが、それは、複合イデアという知即存在複合態の「存在」性を特化したものだろう。)
 次に、差異共立構成態である複合イデアはどのように展開するかを検討しよう。境界という無限速の「光速」、超光速がこのイデアを貫徹・環流していると言えよう。ここはまだ、永遠の世界である。少し考察が齟齬を犯すかもしれないが、差異境界連結とは、単なる可能性ないし潜在性である。これだけでは、現象化されない。物質化されない。ここで、境界の零度が起こる事態を考えよう。1/4回転である。差異共立構成態は、いわば凝縮・縮約するだろう。不連続的差異がいわば連続差異化されるのである。これは、差異にとり、いわば驚天動地の事態であろう。これこそ、現象化ではないか。つまり、イデア界の境界がメディア界であり、境界零度の事態が、差異共立構成態・複合イデアを現象化させるということと考えられる。(では、境界零度において「光」はどうなるのか。つまり、「光」は光になるのだと思う。無限速度の「光」・超光が、ここで、現象界の光に変換されるのではないか。「光あれ」。いわば、稲妻のような光の現象が生起したのであろう。)ということで、現象と光は一体・一如である。アインシュタインの公式E=mcc(m×cの2乗)とは、このことを意味しているように思えるのだが。この場合は現象界のエネルギーである。しかし、メディア界では、超光速と差異共立構成態の相補的強度が発動しているのだろう。それは、潜在エネルゲイアと呼べるかもしれない。そして、現象エネルギーを顕在エネルゲイアと呼べるかもしれない。とまれ、この現象化であるが、ここには、差異の向心力・引力によって現象が生起しているのであり、現象とは、本源的には、差異共立態であると言えよう。相対性理論も成立するだろうし、また量子論も肯定されるのではないか。すなわち、素粒子とは、知即存在の共立態ないし単体であり、「知」であったり、「存在」であったりするだろう。つまり、「波動」であったり、「粒子」であったりするだろう。(これに関しては、別に検討する必要がある。)
 粗略ではあるが、以上で、不連続的差異論から現象化のシステムがより詳細に理論化されたのではないだろうか。