自我分析:不連続的差異論から
[叡智学] 自我分析:不連続的差異論から
以下は昨日論考したものを書き留めたものを、余裕がないので、ほぼそのまま転写する。だから、おかしな部分が入るであろうことをあらかじめお断りしておきたい。
連続的同一性である自我とは、メディア界を排出していると思う。わかりやすくするため、図示しよう。
(1) (2)
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| | 排出された差異 | | | |
不連続的 ・連続的 | | _______ |
差異 ・同一性 | | | | |
・ |→| |自我 | |→
・ | | |連続同一性 | |
・ | | | | |
α ゆらぎ β | | |_____ | |
__________ | |___________|
(3)
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連続同一性 |表面:現象界:連続的同一性・自我
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自我主義 |裏面:不連続的差異・メディア界ゆらぎ
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(3)が、いわば近代的自我というものであろう。排出された不連続性、ゆらぎ、メディア界性は裏面にある(いわば、無意識)。これは2項対立であり、暴力的である。とりわけ、キリスト教化された場合。この表面には、道徳性があるが、倫理性はない。つまり、内在的、他者共感的倫理はない。なぜならば、自我中心的道徳、利己的道徳が生じているからである。倫理はない。なぜならば、自我中心的道徳、利己主義的道徳が生じているからである。
では、裏面にあるもの、例えば、他者共感性とは何か。それは、イデア界的なものだろう。(1)のαに当たるものだろう。つまり、個とは「個」とは、元々、知即存在のイデアである一種全一的存在である。それが、他のイデアとの「連結」によって、メディア界的となる。しかし、このメディア界は元々、不連続的イデアと連続的イデアとの境界・媒介である。では、他者共感性、又はコスモス性とは何か。それは、このゆらぎ自体ではないか。一方(イデア面)では、不連続的差異であり、他方では、連結的差異(ベルクソンの連続的差異多様体)である。このゆらぐあり方が、他者共感性、コスモスである。このメディア性が(3)において、排出されて、2項対立的自我となるのだ。では、超越論的形式はどこにあるのか。(1)のβが超越論的形式であろう。そして、ここから現象界自我が生起するだろう。ならば、より正確に図示しよう。(後で修正する。)
イデア界 メディア界 現象界_______________________________
不連続的差異|イデア面|不連続的差異の連結|現象面|連続的
| | | |同一性・
| |コスモス・ゆらぎ |超越論|反動的
| | |的形式|同一性
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