「光」=「ひ」とは何か:阿弥陀如来の光、イデアの太陽

阿弥陀如来

[叡智学] 「光」=「ひ」とは何か:阿弥陀如来の光、イデア界の太陽


先の検討から、イデア界の光とは、差異境界であると考えられる。これは、連続化へと進展するものである。そう、「光」とは共通項なのである。公約数なのであると思う。アインシュタイン相対性理論とは、このことを意味しているのではないか。光速度の一定の原理。もし、イデア界において、差異境界が光速であれば、もっとも超光速であるが、それは、知即存在である不連続的差異・イデアを交通する存在である。そう、差異連続化するものとしての「光」が考えられるのではないか。これが、万象の共通項であろう。そして、メディア界の光をもって現象界が生起するが、連続化の原理とは、差異連続境界である光の原理であろう。e=mcc という原理とは、正に現象界の原理だろう。つまり、光速とは、イデア界における差異境界の超光速の現象界での速度だろう。すなわち、光とは、イデア界と現象界とをつなぐメディア界的存在だろう。阿弥陀如来の無量光とは、イデア界の差異境界の超光であり、同時にプラトンの言う善のイデアであろう。御来光の光とは、このことであるし、大日如来もそうであるし、卑弥呼(日巫女)の日やアマテラスもこれであろう。二月堂の御水取りの大松明の火も、これであろう。また、ゾロアスター教の火もこれであろう。そう、キリストの光=火も、本来は、これであろう。結局、「光」とは、イデア界の差異境界=超光を指していると言えよう。そして、これは、不連続的差異・イデアの集合体であるイデア界を指しているのである。光とは、ある意味ですべてである。「光あれ」とは、ある意味で尊大な言い方だろう。父権的な言い方だろう。「光ありき」が正しい。そう、初めに、不連続的差異・イデアと「光」ありきである。不連続的差異・イデア即「光」である。