差異と差異との関係、不連続的差異論のイメージ、四大とは何か:「4

[叡智学] 差異と差異との関係とは何か:イデア界の境界とは何か


差異がメディア界から現象界へと変換されるとき、心身はきわめて不均衡である多様な状態に置かれる。いわば、カオス的状態である。つまり、イデア界では不連続的差異として自足していたのである。しかるに、現象界では、無秩序である。思うに、現象界の個とは、連続化されているのである。連続化された家族、社会、時代、世界を生きるのである。根源は不連続的差異=知即存在=イデア=特異性であるが、現象界では連続化の無秩序状態にある。(人間がほとんど狂気的となるのは当然とは言える。)ここで、イデア界の原基によるメディア界から発する強度とは、イデア界への回帰、不連続的差異への回帰を意味するのであるが、しかし、連続化されている個であるから、問題は大きいのである。連続化された社会、時代、世界、宇宙。当然、個とは、連続化された世界と関係する。ここで、倫理、差異共生、共感性が生じるのではないか。あさましい現象・現実がある。醜悪な現実がある。不正義・不誠実な現実がある。これはすべて、個と関係してくるのである。なぜならば、個とは連続化された世界に住んでいるからである。だから、個がイデア界に回帰するためには、この連続化された世界を改変する必要があると言えよう。つまり、連続化された世界を不連続的世界に変容させる必要があるのである。だから、倫理、共感性、差異共生が発生するのだろう。阿弥陀如来の祈願とはこのようなものだろう。つまり、イデア界の不連続的差異という原基によるメディア界から発出する強度が、倫理、共感性、差異共生を生起すると言える。プラトニズムとは社会革命・変革理論でもあるのだ。境界連続化から発する強度である。大乗仏教とは、きわめてプラトニズム的である。社会救済理論である。人類救済理論である。では、キリスト教とは何ぞやである。本来、大乗仏教プラトニズムと同様の人類救済理論であったろう。少なくとも、イエスにおいては。神の国とはイデア界、空である。思うに、宗教が反動化するのは、やはり連続概念にあると思う。神とか仏というと連続化されるのである。だから、空とはすぐれた概念であった。結局、不連続的差異としての特異個に回帰するというのが正しい教義である。私は私である。私は世界とつながっているが、最期は、不連続的差異へと回帰するのである。これは永遠回帰であろう、確かに。往相還相。


[叡智学] 不連続的差異論のイメージ


イデア界が球面だと仮定しよう。そしてこのイデア球面に不連続的差異点が分布する。まるで、大宇宙のような観があろう。とまれ、これを裏返しにしてみるのである。つまり、このイデア球面を、いわばボールの裏面とするのであり、表面は連続体である現象界・現象球面とするのである。ここでは、個体=一般性が支配的である。アメリカ=一般性=「真理」である。現象球面からイデア球面は不可視である。ある意味で、断絶している。超越神の発想はこのようなところから発しているのだろう。また、作家ベケットの『ゴドーを待ちながら』とは、このような不条理な現象球面で、イデア球面を予感しているということではないか。ドゥルーズは、イデア球面をベルクソンハイデッガー的発想で、連続差異(=微分多様体としてしまった。ニーチェは、不連続的差異にこだわった。
 不連続的差異論のイメージはだいたいはこのようなものでいいのではと思うが、細かな部分がわからないのである。差異と差異との連続化とは何かとか。いや、差異連続化とは、差異微分化でいいと思う。ここから、現象球面が発現する(積分化される)と見ていいだろう。資本主義とは、つまり、民族国家資本主義とは、このような連続的現象化の最終段階であろう。(「帝国」とは、その臨界点であり、ここでは差異共生経済主義(差異共生主義)へと相転移が生起するだろう。)
 私は何を問題としているのか。不連続的差異とは特異点であり、差異的普遍性をもつ。特異性という普遍性である。だから、多元的普遍性があるということである。多数の不連続的差異があり、多数・複数・多元的な普遍性があり、グローバリゼーションのような一元化は暴力ということである。そして、不連続的差異の強度のことであるが、あるいは、倫理性、共感性のことであるが、それは、結局、不連続的イデアのもつバランス、知即存在のバランスから発してるのだろう。メディア界的には、心身平行論的になるが、それは、イデア界からのバランスが原基であり、そこを基盤として、メディア界で、強度、倫理、共感性が発するということだろう。だから、共感性や倫理とは愛ではないのだ。一種自己愛に近いだろう。己の内在力学として倫理、共感性が生起すると考えられるのである。スピノザはコナトゥスと言い、ネグリは力量(ヴィルトゥス:マキャヴェリから?)と言うが、それらはこれと同じことだろう。不連続的イデアがあり、それは知即存在の絶対的存在である。しかるに、心身平行論的に構成されて、その不均衡を平衡にするのが、強度=コナトゥス=力量であろう。このとき、生じるのが、倫理であり、共感性である。

p.s. 以上の球面とは平面と読むことができる。

p.p.s. 己の不均衡を平衡に回帰させるのが強度と言ったが、では、なぜ、他者を問題とするのか。あるいは、何故、差異共生主義なのか。己が自足すればいいのではないか。これは小乗仏教から大乗仏教への変容と等価の問題だろう。阿弥陀仏の問題である。光の問題である。何故、己一人の自足ではいけないのか。(普通の学者や研究者はいわば小乗である。己の救済のみを考えている。)なぜ、ブッシュや小泉等々を攻撃するのか。一つは不正義だからである。悪であるからである。ここで、ライプニッツモナドの問題が関係する。結局、イデア界とは何か。イデア平面にある不連続的差異とは何か。ある知即存在の絶対的存在であるイデアと他のそれとはどういう関係なのか。イデアイデアとは認知関係にあるのかどうか。ライプニッツはここで、予定調和という連続概念を提起したのである。あるいは、華厳経は調和宇宙を考えた。しかし、不連続的差異論はそのように考えるのを拒否し、批判する。違うと。イデア界において、差異と差異とは全く無関係なのか。ある意味でそうだろう。モナドには窓がない。しかし、差異と差異の間には境界がある。もし、境界がなくて、不連続ならば、これこそ、全く無関係であろう。まったくコンタクト零である。境界が問題となる。境界によって差異と差異とが区切られるのである。境界の意義を問わねばならない。境界とはメディアであろう。差異は不連続ではあるが、差異と差異とは一種接触しているのではないか。(この問題が最重要である。つまり、決定的な意義をもつ。)境界とは、分離するものであり、本来どちらのものでもないだろう。線は分離する。そして二本の交線で、平面座標ができる。この問題は別に検討しよう。


[叡智学] 四大(地水火風)とは、あるいは「4」という数字


これは、伝統的文化の概念である。自然科学から見たら、疑似的真理と見えるだろう。原理数は「3」であり(イデア界は多数、複数である)、現象界数は「4」である。あるいは、「2」である。後者はわかりやすい。問題は、四大や「4」である。4つの塩基、4つの血液型(ほんとうは、もっと多い)、東西南北(四面楚歌)、時空四次元、4コマ漫画(起承転結)、四輪車、四つ葉のクローバー(少し違うか)、四福音書、等々。(因み、ガタリも「4」という数字にこだわっていた。『分裂分析地図作成法』)直感というか、予測では、平面と関係するのではないか。ガタリの地図という発想、またドゥルーズガタリの内在平面という考え方。不連続的差異論から見ると、イデア界を点ではなくて、平面と見る見方である。平面とは何か。いわゆる二次元空間である。垂直/水平軸の直交座標で、たとえば、記述される。おそらく、この座標に関係するのではないか。平面座標である。これは、二つの軸があればいいだろう。そして、ガウス平面としても記述できるだろう。「4」とは、ここと関係しているのではと予想する。すると、イデア界は、不連続的差異平面となる。実軸が零度になったときが、連続化であろうか。多数の虚数(実数が零の複素数)が、連続化されるということだろうか。ひょっとたら、不連続的差異、各々に、ガウス平面があるのかもしれない(球面)。ある差異の零度とある差異の零度で連続・連結化するということだろうか。また、たとえば、イデア界を球面として、その球面上に原点である差異を置いたらどうだろうか。実数零度で、連続化(コスモス化)すると仮定すると、そのコスモスの等分割が、伝統的な、古代的、東洋的な宇宙論ではないか。たとえば、プラトンの『ティマイオス』のデミウルゴス宇宙論のように。そして、差異とは、二次元とするならば、「4」が発現するだろう。イデア平面とそこに分布する差異点(平面?)があるということか? 以上はまったくの思いつき、空想である。