イデア界のあり方とメディア界の両義・対極・相補性:一試論

イデア界のあり方とメディア界の両義・対極・相補性:一試論


一つの不連続的イデアと他のそれとの関係はいかに。イデアは知即存在として絶対である。問題は絶対存在と絶対存在との関係である。数で言えば、素数の世界のこととなる。そこで、イデア素数として考えてみたい。素数とは、それ自体と《1》だけで、割れる数であり、《1》がいわば公約数である。それ以外は、計算において共通項はない。だから、不連続的な素数は《1》によって、連続すると言えるのではないだろうか。(以前に、差異と差異との境界が1/4回転・90度回転によって0度になるということであった。この回転と《1》の公約数的連続性とが関係するとしよう。)そして、これが差異の連結を意味しているのではないか。これがコスモス(人間と一体としての宇宙)を生み、また同時にカオスモスを生むのだろう。カオスモスとは、コスモスから見たイデア界だろう。不連続的差異の共立界を臨み、自己においては、《1》の連続的宇宙(コスモス)があるということだろう。そして、コスモスないしカオスモスとは、そのまま、メディア界を形成するだろう。一方で、不連続的差異の「多」があり、他方で、連続的同一体の「一」がある。そして、「多」は多神教へ、「一」は一神教へと変転するだろう。(アニミズムシャーマニズムであるが、前者は多神教とほぼ同一視できるだろう。後者であるが、やはり、前者の一バージョンとなるのではないだろうか。これに関しては、後で、検討しよう。)結局、このメディア界界において、一元論的多元論・多元論的一元論が生起すると言えよう。これは、ゆらぐ状態にある領域である。ここで明快にするために、図示しよう。


 
 (1)   α     (2)    β  (3)______________________________
イデア界|《1》の|メディア界|超越論的 |現象界
    |コスモス|     |形式   |
不連続的|    |     |     |
差異   |     |多即一・ |     |連続同一
    |    |     |     |性
カオス |カオス |一即多  |心身平行論|
モス  |モス  |     |     |精神/
    |    |思惟と延長|     |身体二元
    |    |対極・両義|     |論
    |    |・相補性 |     |
    |    |     |     |自我(反
    |    |「魂」  |     |動的同一
    |    |     |     |性
______________________________

(尚、αはイデア界とメディア界の境界面であるイデア面であり、βはメディア界と現象界との境界面である現象面である。)


 

 この図を簡単に説明しよう。(1)のイデア界とは、知即存在である不連続的差異が複数ないし多数ある領域である。αはコスモス界であり、またカオスモス界である。(2)のメディア界は多と一、思惟と延長、精神と身体が、連結しつつ、両項がゆらいでいる対極性・両義性・相補性の領域である。そして、このメディア界がβである超越論的形式(カント)を介して、多と一、思惟と延長、精神と身体という分離的二元論の(3)の現象界に分化するのである。スピノザの心身平行論とは、(2)と(3)との境界面であるβに位置するだろう。だから、スピノザ哲学はカント哲学に近いのである。そして、スピノザの神即自然=実体は、実際は、(1)と(2)との境界面であるイデア面を指していると考えられる。だから、スピノザは偉大であるものの、プラトンに届いていないのである。また、ベンヤミンは(1)をα化したのであり、D.H.ロレンスアルトードゥルーズは、αにおいてゆらいでいたと言えよう。(p.s. ガタリドゥルーズは、「欲望する諸機械」、「器官なき身体」、「リゾーム」というイメージ的観念で、(1)のイデア界を表象していたと考えられる。)
 さて、ここで占星学的宇宙分割について考えてみたい。これは、(2)の分割ではないだろうか。多様体の分割だろう。つまり、連続的差異多様体の分割である。一即全体である。二分割、三分割、四分割、五分割、六分割、・・・多分割。これは等分割だろう。均衡的分割である。また、多即一のα境界において、連続的「一」は延長に、不連続的「多」は思惟と転換するのではないか。そして、この両面がメディア界を形成して、対極性・極性・相補性を為していると考えられる。スピノザの思惟と延長の二元論であるが、それよりは以前の事態がここにあると言えよう。つまり、思惟と延長との対極性・極性・相補性であり、神即自然に近い。そして、これによる分割が、陰陽分割、占星学的分割であるように思える。陰と陽、陽が思惟・精神であり、陰が延長・身体である。これを多様に規則ないし機械的に展開したのが、陰陽分割、占星学分割のように思えるのである。では、四大、地水火風の分割はどこから生じたのであろうか。これについては、後で検討したい。

p.s. 一神教であるが、これまでの考え方を変更しないといけない。ユダヤキリスト教に関して、βと(3)が契機となっていると考えたが、反動とは言え、αの《1》の要素をもって反動化しているのだと思う。つまり、α、β、(3)が結んで生起したのが一神教である。そして、イスラム教であるが、それは、ユダヤキリスト教と異なって、(3)の要素が少ない、(1)とαと(2)が主体となり生起したもののように思える。