ポスト民族国家資本主義:差異共生強度発出

[経済] ポスト民族国家資本主義:差異共生強度発出


思うに、イスラエルとは、usa同様、暴力団国家である。危険極まりない。思うに、民族国家(ネーション・ステート)というものが、今日、ばかげたものになっているのだろう。では、脱民族国家、ポスト民族国家として、何があるのか。それは、差異共生国家だろう。あるいは、差異共生連邦・連合だろう。たとえば、東アジアに差異共生連合を創る方向が考えられる。差異共生基軸通貨が必要だろう。民族国家資本主義から差異共生連合資本主義へ。


p.s. 差異共生主義とは、代表制民主主義のような上下ヒエラルキーを排する水平主義である。それは、一人一人が差異として、不連続的差異として共生する社会・経済・文化・自然・世界・宇宙を目指すものである。当然、脱中央集権制である。地域とは、差異である。だから、地域共生の差異共生経済体を目指す。地域共生経済体である。


p.p.s. 民族国家とは、資本主義の権力・暴力装置・機関である。不連続的差異論から見ると、民族、国家とは、連続的概念で、擬制、虚構である。(実際は、不連続的差異の反復があるのに過ぎない。)つまり、近現代資本主義とは、民族国家(ネーション・ステート)という権力・暴力装置・機関を媒介・メディアとして、展開したものと言える。だから、民族(国民)国家資本主義である。この連続概念を脱構築する必要がある。これまでの検討から、超越論的形式規制が、この支点である。これが、民族、国家を維持させているのである。一種幻想である。そして、資本主義経済も同様である。哲学的に言えば、ポスト・カント哲学である。ポスト連続概念・観念主義である。そして、さらに不連続的差異論から見ると、資本自体は本来、差異共生体である。差異共生的生産物としての資本である。それは、資本家の所有物ではない。それは、差異共生生産物である。だから、ポスト近代資本主義として、差異共生資本主義が立ち上がるのである。ポスト民族国家資本主義としての差異共生地域資本主義。


3p.s. 日銀の発行する法定通貨とは、民族国家通貨である。しかし、差異共生経済から見ると、差異共生通貨が必要となるだろう。それは、差異共生連合通貨であろう。たとえば、東アジアないしアジア差異共生連合通貨が成立するだろう。おそらく、二重法定通貨体制でいいように思えるのだが。相補法定通貨体制である。


4p.s. 差異共生地域資本主義とは、差異共生体主義と言えよう。


5p.s. 差異共生体主義とは、差異共生のエネルゲイア・強度をもつのである。それは、連続概念・自我化されている個を賦活するものである。差異共生強度があり、それが、民族国家資本主義の全体主義から人間を解放するのである。そして、具体的に言えば、ライブドアは、メディア的経済から言えば、それなりに差異共生主義性を帯びているとは言えよう。しかし、それが、民族国家資本主義に転化することは考えられるだろう。だから、ライブドアに差異共生主義という理念をしっかりもってもらいたいものである。とまれ、差異共生強度とは、本源であるイデア界がメディア界を通していわば発しているものであり、これは、不滅である。思うに、これまでの、一切の変革運動とは、無意識のうちに、差異共生強度に駆動されたものと考えられる。ただし、連続概念が強くあったために、すべて反動化したのである。宗教変革、ユートピア主義、政治革命、社会革命、文化革新等々。


6p.s. キリスト教三位一体になぞらえると、イデア界が父であり、メディア界が聖霊であり、現象界が子キリストである。キリスト教史では、フィリオクェ(子とともに)が問題となり、教会が東西分裂する原因となったのだが、つまり、聖霊がどこから発出するのかという問題で分裂したのであるが、思うに、不連続的差異論から見ると、聖霊は強度であり、それは、直接的にはメディア界から発出するであるが、本源はイデア界である。もっとも、イデア界は、強度ではなくて、知即存在という不変不滅さをもつのである。ある意味で「空」である。だから、聖霊は、メディア界から発すると言えよう。父でも子でもないのである。では、さらに展開すると、この教会の東西問題とは何か。子キリスト(現象界)からも聖霊(強度)が発せられるという西方キリスト教の理念というのは、連続的同一性=自我から聖霊が発せられるということで、それは自我欲望・父権的欲望・利己主義・自己中心主義の肯定であろう。西欧文化社会のイデオロギー的起源であろう。聖霊が父のみから発せられるというのは、ある意味でイスラム教と共通しよう。それは、イデア界を維持しているということである。

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