占星学とは何か:「星座」とは何か

私は、「星座」を擬制、原型と考えている。つまり、強度擬制である。では、この場合、占星学の強度とは何かとなるだろう。強度はメディア界の強度、エネルゲイアである。それは、イデア界に回帰せんとする「力」である。緻密に考えよう。メディア界に「精神」と「身体」ないし「思惟」と「延長」がある。そして、これは平行性、相関性をもつ。共感性的能動観念を介して、両者は第三種の認識に近づく。つまり、イデア的認識に近づく。思うに、「精神」が「星座」の「イデア」であり、「身体」が「星座」ではないか。少し、複雑であるが、簡単に言えば、メディア界に占星学の宇宙があるのではないか。メディア界宇宙がコスモスではないか。「精神」と「身体」の宇宙である。「精神」/「身体」宇宙(コスモス)である。ここには、強度がある。コスモスの強度が。(かつて、星の力influenceと言われたものはこのコスモス強度のことではないか。)そして、この精神/身体のコスモスとは、いわば陰陽宇宙ではないか。そして、陰陽的分割が形成されるのではないか。二分割、四分割、六分割、八分割、十二分割、等々。とまれ、このようなコスモス分割があるとしよう。しかし、この分割は、結果であり、原因は、メディア界ではなくて、イデア界ないしイデアに在るだろう。イデアの自転によるものではないか。知即存在から、精神と身体との二元論が生起する。しかし、精神と身体とは強度によって知即存在のイデアに回帰しようとする。そして、この強度的分割論が占星学ではないか。もし、そうならば、人間や宇宙は分割強度に規定されるだろう。そして、この強度分割を原型と呼んでいいのだろうか。それでいいのかもしれないが、超越論的形式と混同されるのではないか。ここで、簡単に整理すると、

A.イデア面|B.メディア界|C.現象面

において、強度分割はAにあるだろうし、超越論的形式はCに存するだろう。だから、原型という用語は、両義的で、混同されやすいだろう。思うに、プラトンが『ティマイオス』で述べた宇宙分割は、Aに相当するし、コーラとは、B.のメディア界自体ではないか。あるいは、C.現象面かもしれない。後者とすれば、


A.イデア面(強度分割・コスモス:規定)|B.メディア界|C.現象面(コーラ)・超越論的形式(規制)


となろう。そして、デミウルゴス(創造神)とは、イデア界自体である。では、原型という用語は何を指すとすればいいのだろうか。ゲーテが原型と呼ぶものは、AとCの両者である。また、ユングが元型と呼ぶものは、だいたいAであろう。そして、花のイデアと言ったときに元型とは、Cであろう。だから、この用語は避けた方がいいようだ。私が原型規制と呼んだのは、Cの規制、すなわち、超越論的規制となる。
 では、強度分割と特異個との関係はどうなるのだろうか。たとえば、私が牡牛座であるとしよう。これは、特異個である「私」を規定するのか。思うに、ある程度規定するだろうが、絶対的ではないだろう。私は私である。つまり、不連続的差異としての「私」がある。つまり、メディア界的な強度分割を「私」は被っているが、絶対的にではない。なぜなら、「私」は本来、知即存在の不連続的差異・イデアであるからだ。メディア界的配分とは、中間的なもの、正に媒介的なものであり、相対的で、絶対的ではないのだ。内在的仮象性である。「私」の内在的メディア性に過ぎないだろう。

以上は、作業仮説であり、再検討したい。がらっと変わるかもしれない。とりあえず、現段階を整理して、図式化すると、


1.『イデア界』(不連続的差異)///イデア面=心身相補性(魂)(強度分割・コスモス:規定)||2.『メディア界』=心身平行論||現象面(コーラ)・超越論的形式(規制)///3.『現象界』(連続的同一性、自我、反動暴力性)


となろうか。