うつ病再考:メディア界的原型規制、スピノザ、不連続的差異論

先に、原型は自我を規制するものと述べた。うつ病の場合、この原型規制が抑圧的になり、エネルギーが否定的になっていると言えよう。私見では、うつ病者は、原型規制が強固なために、強度を肯定化できないと思える。つまり、メディア界の現象面において、この規制が、メディア界のイデア面での強度を抑圧していると考えられるのである。つまり、受動反動的に原型規制が機能しているということである。故に、なんらかのショックをうける経験を受けると、この自我は、受動反動である強度を喪失して、意欲を喪失するということではないか。もし、メディア界のイデア面の強度が作動していれば、新たに賦活される、活力を得ると思われるのである。このイデア面の強度とは、スピノザの言う肯定能動的な強度であろう。それは、個的な、差異的な強度である。受動反動の強度とは全く性質が異なる。受動反動とは、いわば連続的な強度である。それに対して、能動的強度とは、不連続的な強度である。私見では、この能動的強度とは、共感的、差異共生的である。他者とともにある、他者を肯定する精神とともにあると思う。一種、「ゆるし」に近いが、しかし、能動的観念を形成するために、批判的でもある。
 では、このスピノザの能動的強度・能動的観念とは何なのか。それは、先に述べたが、不連続的差異としてのイデアの知即存在の「力」即「知」なのではないか。簡単に言えば、力知である。つまり、イデア存在とは、自足存在であり、また、独立した存在であり、他者との力関係を拒絶するのである。しかし、メディア界は受動反動性があるために、独立的ではなくなる。しかし、能動化とは、この受動反動に対する均衡・バランスを取る作用のように思える。つまり、本来のイデア的存在にもどるための方法である。そして、能動的観念とは、イデア的知的自足のための積極的知であると言えよう。つまり、スピノザ哲学(『エチカ』)とは、イデアの哲学を説いていると言えるのではないだろうか。ならば、私が述べた共感性とは実は、イデアのもつバランス機能なのである。人は、「愛」というが、それは、連続的だと思う。そうではなくて、共感性ややさしさが、不連続的で本来的だと思う。だから、イエスの教えであるが、それは、「愛せよ」ではなくて、「共感せよ」であろう。D.H.ロレンスはイエスの「愛」を批判して、「共感性」・「やさしさ」を説いたのである。以上から、うつ病の問題は、メディア界における原型規制/受動反動強度にあるということになる。
 ところで、スピノザ的なイデア論(『エチカ』)は、実は身体論でもある。つまり、能動的共感性・強度・観念とは、身体にかかわるもので、心身的である。なぜならば、共感性とは、正に身体と精神との境界で機能すると考えられるからである。つまり、スピノザ的なイデア論とは、能動性を通して、身体と精神の両面を創造的に賦活・強化するものと考えられるのである。身体の賦活があり、同時に精神の賦活があるのである。そして、この心身的能動化は、イデア界への回帰の意味をもつのである。これが、スピノザが第三種の認識・直観知と呼ぶものだろう(『エチカ』の第二部定理四十の注解二)。
 さて、ここで補足すると、スピノザの身体と精神とは、メディア界に存するものである。つまり、スピノザの言う属性とはメディア界に属すると言える。そして、身体と精神、心身性を第三種の認識へと創造的に転化することは、イデア化することと考えられる。すなわち、知即存在というイデアへの創造的変容・トランスフォーメーションである。だから、不連続的差異論にとって、スピノザ哲学は、メディア界/現象界からイデア界への転換へのある意味で根幹的な方法論を述べていると考えられるのである。しかし、第三の認識・直観知・神の認識は、連続的なのか不連続的なのかという疑問が生じるのである。結局、すべて神即自然即実体となるのであるが、それは、一つのイデア=神に収斂しているのではないかと思えるのである。すると、やはり、連続的なイデア界となってしまうだろう。ドゥルーズスピノザを哲学の王者と言ったのも理解できよう。なぜならば、前者は、差異=微分と考えていて、スピノザ哲学はそれに合致するからである。ならば、スピノザ哲学の「脱構築」も必要である。つまり、スピノザ哲学の不連続化、プラトン化である。
 以上を図式化しよう。


1.イデア界(不連続的差異)//2.イデア面=心身相補性|メディア界=心身平行論|現象面=原型規制//3.現象界


となろう。イデア面=心身相補性とは、スピノザの精神と身体の平行論の接合部分である。つまり、イデアの知即存在のエネルゲイア的領域である。ここで、強度について簡単に触れてみると、ODA ウォッチャーズ氏が述べたように、それは、イデア界にあるのではなくて、メディア界に生ずると言える。なぜならば、イデアとは知即存在の自足即自的存在であり、それ自体は変化しないからである。イデアイデアとの関係からメディア界が生じて、その一種不均衡において強度が生じると言えるだろう。だから、エネルゲイアと言ったときは、それは、やはり、メディア界の事柄だろう。さらに考えると、物理学のエネルギーとは何か。心身的強度をエネルゲイアと呼ぶなら、それは、エネルゲイアにはならない。スピノザの言う様態のエネルギーだろう。現象界のエネルギーである。それは、原型・広義の超越論的形式の「力」によるものではないか。つまり、精神と身体に分離されて(二元論化)、それらが連続的同一化されるところの力ではないか。原型力・連続的同一性力と呼ぶべきものがあるのではないか。これが、現象界を形成しているのではないか。それが物理的な力・エネルギーなのだろう。
 少し整理しよう。メディア界には、イデア面的な強度が作用する。しかし、現象面においては、原型規制力・連続的同一力・物理力が作用する。では、強度と物理力(物質力)との関係は何なのか。両者には境界があるだろう。例を取って考えよう。今、私の部屋の窓外で、強風に音を立てて杉の木が激しく揺れている。これは物理力による現象とふつう考える。しかし、どうだろうか。物理力とは、強度を連続化したものではないのか。ほんとうは、強度、「風」の強度と「杉」の強度とが相互作用しているのに過ぎないのではないだろうか。つまり、強度を物理力といわば錯視しているのではないか。ほんとうは、不連続的差異の関係である。それを連続化して、物理力にしていると言えるのではないか。そう、やはり、物理力、物質力とは擬制である。原型規制を受けた擬制であろう。だから、カントの物自体とは、強度が作用するメディア界であり、さらには、イデア界のことであろう。原型規制おそるべしである。西欧・米資本主義は、これの全面的帰結である。ビル・トッテンに倣えば、アングロサクソンキリスト教との必然的な合体である。なぜならば、両者ともに父権自我=自己中心=利己主義的であるからである。