精神/光・魂/身体というイデア界の意味、スピリットとは何か

[叡智学] 精神/光(魂)/身体というイデア界の意味


これまでの考察から、人間は死ねば、イデア界に回帰することとなる。精神/光/身体のイデア界である。身体がイデア界にあるというのは奇妙かもしれないが、延長と言ってもいい。あるいは、質料と言ってもいいだろう。スピノザ哲学のエッセンスを取り入れているのである。さて、では、人間が生きていた間の経験・体験は、死の時どうなるのだろうか。オカルト主義や宗教では、ふつう、身体を残して、生前の記録をもった魂があの世に行くこととなる。しかし、私見では、そうではない。結局、人間存在とは、イデア界的存在(現象)なのであり、言うならば、万人万象が、「神」である。人神、物神である。とまれ、イデア界的存在であるから、死ぬときは、このイデア界的存在に回帰すると言えよう。つまり、精神/光/身体というイデア界的存在に還元されるということである。ならば、生前の経験・体験は、精神/光/身体に刻まれているのではないだろうか。悪行は刻まれるし、努力、智慧、倫理等も印刻されよう。光が各人の行いの帳簿のバランスを取るだろう。では、個はイデア界において何なのだろうか。イデア界に刻まれるとはどういうことなのか。イデア界の記録・帳簿・歴史とは何か。まったく想像であるが、光の記録があるのではないだろうか。光ディスクみたいだが。つまり、精神と身体との交通があり、その交通を光が認識しているのではないか。光の智である。光智である。つまり、精神と身体との境界差異情報を、光が記録するのではないか。光情報・光通信強度である。これが、イデア界を交通しているのではないか。そして、この「個」の情報が、精神/光/身体において計算されるのだろうか。そして、生前の成績評価されて、もっといい点を取るように、生まれ変わるのではないか。つまり、イデア界は学校である。永遠学校、生涯教育ならぬ永遠教育である。すると、人間は、イデア界の光情報・光通信を内在しているということになろう。


「わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)」


http://why.kenji.ne.jp/haruto/100jo.htmlから


[技術] 蓄電革命:「ECaSS(イーキャス)」という名の蓄電装置


http://blog.melma.com/00126388/20050220004512


[叡智学] スピリットとは何か:精神と霊と魂

先に、精神/光/身体という三元性をイデア界に想定した。(スピノザ哲学は、属性は無限にあると言っていて、人間には、思惟と延長しか認知できないと考えるものである。)光=魂としていいと思う。そう、「こころ」というものもこれにあてはまるだろう。光=魂=「こころ」である。精神世界関係では、スピリット、霊、精霊等の用語を用いる。これは、何であろうか。現象界が精神/身体の二元論で形成されるならば、現象には、精神/身体が内在している。この精神をスピリットと言うのだろうか。それとも、境界・メディアである光・魂・「こころ」をスピリットと言うのだろうか。私見では、ここで混乱が生じているように思う。つまり、精神世界において、両者が混同されているのではないかと思われるのである。つまり、精神と光・魂・「こころ」が混同されているということである。精神とは、知性を含む理性である。しかし、光・魂・「こころ」とは、精神と身体との境界強度であり、両者の「交通機関」である。そして、差異共生、真正民主主義を生む強度であると言えよう。つまり、共感性である。知というよりは、情的要素である。だから、情魂性と言えるかもしれない。それに対して、精神とは、ロゴスの領域である。知性/理性の、イデア・ロゴスの領域である。批判の領域である。ということで、整理すると、


精神(叡智・イデア・ロゴス、知性/理性、批判性)/光(差異共生性、共感性、情魂性、「こころ」)/身体(質料性)


となろう。だから、スピリット・霊という言葉を使用するときは、私としては、光の領域に限定したい。精神とスピリットは異なると言えよう。だから、精神世界とは、心魂世界という方が的確だろう。心魂は確かに重要であるが、それ以外に、精神・ロゴスが重要でもある。