差異共立体と多元論:三元論、多元論、二元論

289892ec.jpg[叡智学]差異共立体と多元論:三元論、多元論、二元論


前の論考で、イデア界において、「精神」と「身体」、両者の境界差異として「光」が存することを提起した。すなわち、「精神」、「身体」と「光」(=「魂」)のいわば三元論である。(伝統的には、「3」が原理の数となっている。『古事記』の始原の三神。)作業仮説として、イデア界はこの三元論で説明できるとしよう。この三元性は動的であり、生成的である。「精神」(これから、単に精神と表記する)と「身体」(同様に、身体とする)との差異共立性によって多様な差異関係が生起する。これが、多元論ないし多神教の起源だろう。これは、不連続的差異論から見ると、メディア界のイデア面の事態ではないだろうか。図式化すれば、


イデア界(精神/光/身体)→イデア面(精神/身体多元性・多神教性)/メディア界/現象面


となろう。これで、三元論から多元論への移行の説明がつく。では、異性ないし雌雄の問題はどうなるのか。これも、三元性で説明ができるだろう。ここで、単純に精神と身体に、ジェンダーを当てはめることはできないだろう。なぜなら、女男ともに、精神と身体をもつ心身体であるからだ。ずいぶん以前に、女性の方が男性よりも強度が強いということを述べた。これは、メディア界の問題だろう。つまり、イデア界からメディア界への移行において、三元的構成態が生じる。しかし、この三元的構成態は、二極分化するのではないだろうか。つまり、よりイデア面よりのものと、より現象面よりのものが生じるのではないか。つまり、不連続性が強いものと連続性が強いものの二極分化である。一種、プラスとマイナスのそれのようであろう。イデア極と現象極との二極分化である。つまり、メディア界的二極分化である。ここで、異性、雌雄、ジェンダーが形成されるのではないか。そして、この差異が、DNAの配分に影響するのではないか。つまり、メディア界に異性、雌雄、ジェンダーの遺伝子(メディア界的差異)があり、それが、DNAとして現象物質化されるのではないか。【しかし、ここで鋭敏に注意しないといけないのは、遺伝子とDNAとは異なるということである。前者はメディア界的差異であり、後者は現象界的差異であることである。これは、別個のものである。この区別を見ないセントラルドグマ、ヒトゲノム計画、遺伝子操作(クローン化)、遺伝子組み換え等々は、最大級に恐ろしく危険なものであり、自然をフランケンシュタイン化するものである。(ドゥルーズが、いちおう、この区別をしていたが、それは、差異=微分論によるもので、不正確である。)】これで、異性化、雌雄化、ジェンダーの問題は済んだとしよう。
 次に、個体、個物の問題である。あるいは、進化の問題である。特異性としての「私」、不連続的差異としての「私」の経験・思索・行為とは何なのだろうか。それは、イデア界的に経験・思索・行為するということだろう。すると、「私」とは、連続的同一性の現象界におけるイデア界的存在である。特異的、不連続的差異的個体・個物である「私」とは、イデア界的存在である。この点では、「私」は普遍的であり、そのような「他者」も普遍的であり、共通である。そして、この普遍者とは、連続的同一性の現象界という被限定・規定性をもつのであるから、普遍的とはいえ、限定された普遍である。ここで、対話(ダイアローグ、ディアレクティケー:弁証法とは本来、対話、問答から発している。問題論である。ドゥルーズがこれを述べている。)が最重要な契機となる。ダイアロゴス、ダイアポリロゴスである。結局、この特異性、不連続的差異性の「私」は限定された普遍者であり、対話を通して、より普遍的な普遍者になるのである。ソクラテスプラトンの対話・対話編とは、この意味をもつだろう。無知の知とは、このことだろう。このように考えると、「私」は、イデア界の一種顕現であり、死せるときは、イデア界の精神、身体、光の三元界に帰還するということではないだろうか。仏像に釈迦三尊仏や阿弥陀三尊仏があるが、それは、これを意味しているのではないだろうか。つまり、大乗仏教とは、イデア界の三元性の観念表象であるということであろう。
cf. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6%E4%B8%89%E5%B0%8A
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%B8%89%E5%B0%8A
では、生の意味とは何か。それは、現象界をよりイデア界化することだろう。親鸞の往相還相はその謂ではないか。【多神教的仏教、すなわち、神仏混淆とは、実は、神仏整合ではないか。日本伝統文化は、イデア界的文化であると言えるだろう。日出ずる国の意味。ひがし=東=日+木=日樫=日神?。ひむかし(東)=日向風ひむかしの意(広辞苑)】
画像は以下から
http://www.kuma.ne.jp/taragi-tk/frame.htm


p.s. 結局、ジェンダーとは、単純に二元化できないということである。メディア界的差異とは、確かに、二極分化性をもつとは言え、実際は、多元性・多様性であり、個体を二分化するジェンダーの考えは途方もなく粗雑であり、暴力的だろう。相対的二極分化的多元性としてのジェンダーだろう。メディア界的ゆらぎをもつ多元多様なジェンダーであろう。


p.p.s. 阿弥陀三尊仏であるが、脇侍勢至菩薩と脇侍観世音菩薩の間に、阿弥陀如来があるが、勢至菩薩智慧、叡智であり、観世音は慈悲、救済であり、阿弥陀如来は両者併せたものだろう。両界曼荼羅で言えば、金剛界勢至菩薩がいて、胎蔵界に観世音菩薩がいるということで、両者併せて、阿弥陀如来になるのではないか。それは大日如来でもあろう。精神、身体、光のイデア界から見ると、どうなのか。当然、精神が勢至菩薩であり、身体が観世音菩薩であり、光が阿弥陀如来ということで、見事ぴったしあてはまる。
cf. http://www.chogakuji.or.jp/honzon.htm


3p.s. 勢至菩薩は視覚・美術で、観世音菩薩が聴覚・音楽で、阿弥陀如来が、視聴覚・芸術・インターアートではないか。「光」は、強度波動でもあるから、音でもあろう。光と音響との差異共立・調和界としてのイデア界であろう。詩人、歌人は、光を音響的にも知覚していた。円空は「法の御音」と表現していた。
「木にだにも 御形移すありがたや 法の御音は 谷のひびきか」
http://www.vill.tenkawa.nara.jp/sightsee/tenkikawa/yukari.html
光波である。


4p.s. 直感で言うと、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が光で、高御産巣日神(たか(み)むすびのかみ)が精神で、神産巣日神(かみむすびのかみ)が身体であろう。
cf. http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page005.html
http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/kamimusubi.html


5p.s. イシス・オシリス神話であるが、イシスが精神で、オシリスが身体であろう。そして、光は女神ハトホルだろうか。もし、イデア界をジェンダー的に見るなら、精神が女性で、身体が男性だろう。しかし、これはもはや意味をほとんどもたない区別だろう。なぜなら、ジェンダーは、メディア界/現象界に関わることであるから。女神の神話では、太陽、月は一如であり、女神は宇宙全体である。卑弥呼(日巫女)、アマテラス、かぐや姫(月の女神)等は本来一体だろう。女神は日であり、月・海であり、地であったろう。これは、女神=イデア界=精神/光/身体=三元性・三幅対を意味しよう。アマテラス、スサノオ、月読みも、これを意味しよう。しかし、このイデア界的三元性が、「天皇教」のために、イデオロギー化された、つまり、政治権力的に歪曲されたと言えよう。「日の御子」天皇とは、実は、日巫女であろう。神は現人神ではなくて、イデア界に存するのであり、現象界には、ヴィジョンとして発現するということだろう。敷延すれば、イエス・キリストという現人神も、同様だろう。それは、誤謬である。イエスとは、いわば、イスラム教が言うように預言者に過ぎないだろう。この現人神信仰については、別に検討しよう。


6p.s. 易経は、陰陽の卦で、2の6乗で、64通りできる。これは、(2×2×2)×(2×2×2)=64ということである。最初の2の3乗は、3元的構成態とみることができるかもしれない。つまり、メディア界の二極化の一極であり、それをさらに二乗することで、メディア界の二極両極分化を意味しているのかもしれない。塩基配列のコドンであるが、それは、4×4×4=64種類である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%89%E3%83%B3
これは偶然の一致なのだろうか。4×4×4=(2×2)×(2×2)×(2×2)=(2×2×2)×(2×2×2)=64となる。だから、3元的構成態を配分し直せば、コドンとなろう。ならば、以上から、四つの塩基とその塩基結合である染色体が説明されるのではないだろうか。つまり、二重螺旋は、メディア界の極性分化でほぼ説明できるだろう。そして、四つの塩基であるが、4という数字は、メディア界の二極性の順列の数字だろう。では、よく秘数とされる5(ペンタクル)はどうだろうか。これは、推測するに、メディア界が4ならば、イデア界の1を足した数であるか、イデア界強度1を加えた数であろう。二重螺旋について見ると、これは、メディア界の両義性・両極性・両面性の差異によるものであろう。イデア極/現象極ないしイデア面/現象面の差異。この差異は、イデア界の強度によるものであるが、イデア界は回転するイデアであるから、当然、メディア界の差異はイデア界の差異へと回帰する力動性・強度をもつだろう。つまり、循環強度である。だから、メディア界の極性は、渦動するだろう。これが二重螺旋の「力学」ではないか。以上は、半分冗談である。後で、より精緻に検討したい。