スピノザ哲学と不連続的差異論:宇宙と人間の相似性

不連続的差異論は、

1.イデア界/メディア界/現象界

という三界論であり、いわば三位一体である。そして、

2.イデア界=不連続的差異イデア、そして、メディア界は、

3.イデア面|メディア界|現象面

という構成であり、ここから、現象界が生起する。

 さて、スピノザ哲学の実体/属性/様態と比較してみると、これはイデア界/メディア界/現象界と相応するような構成である。すなわち、実体とイデア界、属性とメディア界、様態と現象界である。私は、精神、身体、魂を問題にしたい。スピノザ哲学は心身平行論とも呼ばれる。精神と身体とが平行するということである。あるいは、思惟と延長との平行論である。そして、この二つの属性が人間に認知されるものとされる。
 では、不連続的差異論は、精神と身体、思惟と延長をどう捉えるのだろうか。とりあえず、精神・思惟のイデア、身体・延長のイデアがあるとしよう。これは不連続的差異イデアである。しかるに、メディア界を通して、媒介として、連結して、心身体(人間)となる。つまり、メディア界において、不連続的差異イデアが連続的同一性現象に変換されるのである。(メディア界は変換器、トランスフォーマーである。)だから、スピノザの属性に当たるものは、イデアであろう。(そして、実体は、イデア界である。)
 さらに、ここで、プラトンの問題を導入すると、善のイデアと太陽の平行性の問題である。前者は、イデア界となる。では、後者、太陽は何なのだろうか。太陽のイデアとは何か。日(火、緋)のイデア。ここで、角度を換えて考えよう。イデア界を強度が満たしている。それは、無限速度である。そして、これは、差異均衡公正強度でもある。思うに、「善のイデア」=イデア界を満たす強度が、光のイデアではないだろうか。そして、精神のイデアと身体のイデアとの境界強度が光のイデアとなるだろう。それは、精神のイデアと身体のイデアの差異(不連続的差異)としての光のイデア(差異)である。だから、境界差異であり、境界差異強度である。境界差異としての光イデア、光差異である。差異共立強度でもある。結局、善のイデアと太陽の関係は、イデア界とイデア界強度との関係となろう。そして、精神と身体、思惟と延長を考えると、精神と身体との共立連結として現象界が考えられるのであり、結局、太陽とは、精神・身体、思惟・延長による連結体となろう。つまり、太陽には、イデア界の強度であるから、精神・身体を「属性」としてもつということになろう。つまり、太陽にも精神があり、身体があるということである。そして、同様に太陽系、銀河系、宇宙全体も、精神と身体をもつということだろう。この精神と身体は当然人間を形成するものであり、ここで、精神・身体の共立体として、宇宙と人間とは相似形、類似物、パラレルであると言えよう。古代宇宙論占星術とは、この意味では、真理とは言えないものの、宇宙と人間の相関関係を認めている点では、正しいと言えよう。結局、イデア界の精神/身体共立性、心身共立差異性が、宇宙と人間との相似性の基礎である。

p.s. 以上はまったくの試論というか、おもいつきであり、再検討しなくてはならない。

p.p.s. 占星術の「星座」とは、心身共立差異強度を連続的原型として固定したとらえ方であり、また、ユング心理学の元型(アーキタイプ)とは、同様に心身共立差異強度を連続的原型固定化したものであると考えられる。

3p.s. 結局、要は、イデア界において、「精神」と「身体」、「思惟」と「延長」、「知」と「物質」、「形相」と「質料」の二元論を少なくとも認め、自然とは、現象とは、森羅万象とは、この共立態(共立様態)であるということである。つまり、物質でさえ、「精神」と「身体」の共立様態であるということとなる。たとえば、炭素も「精神」と「身体」との共立様態ということになるのである。ならば、量子力学における量子とはどうなるのか。やはり、「精神」と「身体」の共立様態となろう。粒子と波動との相補性であるが、これは、この共立様態を反映しているのではないだろうか。