プラトニズムと不連続的差異論:共通点と相違点

プラトンの古代宇宙論が表現されている『ティマイオス』からこの問題を考えよう。創造神デミウルゴスが、原型イデアを基にして、宇宙を構築することが述べられている。そして、また有名なコーラが述べられている。コーラとは、原型イデアを受け入れて多様な現象を生成する受容的場である。私は以前、コーラとは、イデア界を指していると考えた。思うに、原型イデアとコーラとは、アリストテレスの形相と質料にそれぞれ相応するようだ。ただ、後者には、超越論性がないだけだ。さて、原型イデアとは、主に、メディア界の現象面、原型性、超越論的形式性、構造性を意味しているのである。だから、コーラとは、メディア界のイデア面ではないのか。つまり、プラトンは、メディア界の両義性をここで述べているのではないか。イデア面としてのコーラと現象面としての原型イデアである。不連続的差異論から見ると、メディア界の両面は一如であり、不可分である。つまり、コーラと原型イデアとは一如不可分ということになる。すると、プラトンは、二元論的になっていると言えるだろう。とまれ、コーラとはイデア面であり、不連続的差異イデアに近いものであり、原型イデアとは、連続的同一性的である。
 ということで、コーラとはイデア界を指すのではなくて、メディア界のイデア面を指すと言うべきだろう。さて、思うに、西洋哲学の二元論の基は、ここにあるようだ。しかし、プラトニズムとは、イデア界と現象界とが不可分であることを表現しているものだ。なぜなら、イデア界の影として現象界があるからである。イデア界即現象界(色即是空・空即是色)である。では、イデア論とは何なのだろうか。先にも述べたが、不連続的差異論から見ると、それはメディア界論である。メディア界の両義性、両界性をイデア論は述べているように思えるのである。そして、不連続的差異論とは、真のイデア界を打ち立てたと言えるのではないか。プラトンのメディア界的「イデア」ではなくて、イデア界の不連続的差異としてのイデアを明確にしたのである。それは、ドゥルーズデリダの差異論の批判創造的発展であろう。メディア界的差異/同一性の「イデア」ではなくて、イデア界の不連続的差異としてのイデアである。この差異イデアは、内在動態的であり、永遠に生成を続けると言える。オルテガの説く生・理性に近いだろう。とまれ、整理すると、不連続的差異論とは、プラトニズムとポスト構造主義を批判的に整合化して創造された理論であると言えよう。不連続的差異イデア論とも呼べよう。

cf. http://blog.melma.com/00122700/20050107160655


p.s. プラトンは、有名な洞窟の比喩で、真実在として太陽をあげているが、この真実在とはイデア界を指していると考えられる。つまり、プラトンが善のイデアと呼んだものが、先にも述べたが、真のイデア界にあると考えられるのである。ここで、復習すると、プラトンイデアとは、メディア界の「イデア」であり、善のイデアが、真のイデアを指している。しかし、この場合、要注意なのは、善のイデアが、一元論、一神教的に捉えられやすいことである。ネオプラトニズムの一者とは、まさにそのようなものだと思う。また、さらに注意すべきは、善のイデアに父権的要素がないかという疑問である。超越神性や超自我性がないかである。直感では、あると思う。原型に対応して、善的イデアが想定されていると思う。だから、プラトンは父権的一神教に近づいたと言えよう。キリスト教化は近い。不連続的差異論から見ると、善のイデアとは、実は、差異均衡公正強度と考えられる。これは内在倫理強度である。