シューベルトの第九交響曲『グレート』とイデア界

ODA ウォッチャーズ氏の芸術三項論から、芸術は、すぐれてメディア界的であり、イデア界と現象界のあいだをゆらいでいる存在であることが判明した。ところで、私は、以前シューベルトの音楽はこれにあてはまることを述べた。それに対してモーツァルトの音楽は、意外に現象界的音楽であり、ゆらぎがほとんどないことも述べた。
 さて、シューベルト交響曲『グレート』であるが、まさに、グレートである。私はイデア界的と呼びたいのである。イデア界の強度がこの曲には感じられるのである。そう、シューベルトは、イデア界からのインスピレーションでこの曲を創作していると思えるのである。イデア界の音楽である。イデア界の崇高な美・調和の音楽である。どうして、そのようになるかは、芸術三項論から説明できるである。復習すれば、1.不連続的差異としてのイデア界/2.芸術作品(メディア界)/3.連続的同一性(現象界) である。優れた芸術は1.と3.との共立・共生・連結である。そして、シューベルトの場合は、美しいメロディーが基本としてある。これが3.である。しかし、その連続的同一性のメロディーと対位法的に不連続的なメロディー(ないしリズム)が存して、そこに不連続的差異を生起させて、それが1.のイデア界を想起させるではないかと思われる。単に美しいメロディーだけでは、現象界的である。それは退屈なものとなる。しかし、不連続的メロディーというか、不連続的な強度的なメロディーを導入することで、カント的に言えば、美と崇高との不連続的共立・共生性が形成されるのである。これが、イデア界を喚起させると言えるだろう。美と崇高との結合であり、それは正にメディア界的と言えよう。
 ということで、整理すると、シューベルトの音楽には、3.の連続的同一性の美的メロディーと1.の不連続的差異の強度的メロディー・リズムが存しているのであり、その両者の交通(メディア界)がゆらぎを形成して、聴き手に、崇高と美との歓喜・感動・感銘をもたらすと言えよう。

p.s. 単にイデア界的な不連続的差異のメロディー・リズムだけの音楽ならば、感動しないだろう。つまり、それは、いわば物自体の音楽であり、人間の聴覚形式にそぐわないだろうからだ。現象界の形式を通さないといけないのである。ここに芸術の意味があるだろう。感覚表現化である。ここから考えると、現代芸術は、特に現代音楽はここを見事に外していると思う。つまり、抽象主義となり、現象界的具体性(連続的メロディー・リズム)を捨象してしまったのである。これは、現代美術にも多く当てはまるのではないか。とまれ、芸術三項論で、芸術ルネッサンスの糸口ができたと言えよう。