プラトンの善とイデア界:プラトニズムと不連続的差異論

[叡智学] プラトンの善とイデア界:プラトニズムと不連続的差異論


善のイデアとは、他の諸々のイデアの始原・源泉として捉えられている。では、不連続的差異論において、そのプラトニズムの根幹というべき思想をどう捉えればいいのだろうか。先に私は、それを差異均衡公正強度として見た。だから、「善」とはイデア界内部のものである。しかるに、プラトンの記述は、なにかイデア界を超越するようなものを含む。「・・・ただし、〈善〉は実在〔イデア〕とそのまま同じではなく、位においても力においても、その実在のさらにかなたに超越してあるのだが」(『国家』下巻 p.85 岩波文庫
そのままとれば、イデア界を超越した超イデア界があるということになろう。私は以前に、そのようなものを考えたことがあった。それは、差異と境界との未分化であるような超界である。連続・不連続の以前の、非連続・非不連続の世界である。元にもどるのは、ここでは避けよう。不連続的差異論において論究しよう。以上でプラトンが述べている「実在(イデア)」をどうとるべきかである。それは、不連続的差異である。それを超越したものとしての善のイデアがあるとはどういうことなのだろうか。ここで作業仮説すれば、プラトンの述べる「実在(イデア)」とは、実は、メディア界的存在ではないだろうか。つまり、一方では、イデア極ないしイデア面をもち、他方では現象極ないし現象面をもつということである。いわば、メディア界的「イデア」である。差異と同一性との両義性をもつ「イデア」である。だから、プラトンイデアとは不連続的差異としてのイデアではないということになる。それは、一方では、不連続的差異の様相をもつものの、他方では、連続的同一性の様相をもつのである。だから、花のイデア等々があるのだろう。この「花」とは連続的である。しかし、イデアということで、不連続性をもつ。ということで、プラトンイデアとは、メディア界の「イデア」ではないかと考えられる。それは、原型というのにふさわしいものだろう。これは、構造主義的である。そう、カントの超越論的形式もこれにほぼ等しいであろう。
 このように考えると、プラトンが善のイデア(いわば、イデアイデア)と呼んだものは、不連続的差異論のイデア界に相当すると推察できるのである。このイデア界こそが、善のイデアという大始原であると言えよう。そして、不連続的差異としてのイデアとは、プラトンイデアを超克したものと言えるのではないだろうか。なぜなら、プラトンイデアとは、メディア界の原型と言うべきものであり、イデア界のイデアではないからである。このように考えると、不連続的差異をイデアと呼ぶと混乱するかもしれない。とまれ、これは差異イデアであり、プラトンイデアとは原型イデアと呼んで区別ができるだろう。ということで、プラトンイデア論とは、不連続的差異論から見ると、メディア界を中心として論考されているが、善のイデアというイデア界を始原にみていたのであり、ほぼ、不連続的差異論の先駆となっているのである。しかるに、問題は、善のイデアと言ったとき、イデアの不連続性が見失われる恐れが強い。つまり、一元論、連続的一元論になる恐れがある。あるいは、一神教になる恐れがある。思うに、キリスト教と出会ったとき、プラトニズムは、この善のイデアを神と同一視されて、キリスト教に吸収同化されたように思う。そう、キリスト教化される根は、プラトニズムにあったと言えよう。しかし、今や驚異奇蹟的な不連続的差異論によって、プラトニズムを救い、それを創造的に深化発展させたと言えるだろう。つまり、一種プラトニズムの乗り越えでもある。ドゥルーズガタリは、後一歩でここに達しなかったと言えよう。


p.s. 原型イデアであるが、これは、その後の西欧文化を律したと言えるだろう。ゲーテにしろ、シュタイナーにしろ、構造主義にしろ、この影響の支配下にあるだろう。ポスト構造主義とは、これからの脱却を目指したものだったが、不完全なもので終わったと言えよう。デリダは、確かに、原型イデア=構造=音声/ロゴス中心主義を脱構築=解体する哲学を説いた。しかし、解体中心で、再構築がなかったと言えよう。思うに、脱構築する「力」=強度があるのであるが、それをデリダは積極的には説かなかったと思う。差延にしても、それは始原の「力」=強度によるものと言えるだろう。この「力」=強度に関して、ドゥルーズは積極的に説いたのではあるが、しかし、ベルクソンハイデッガー哲学の連続的差異性に囚われていたのである。つまり、ここで、一種原型イデアにもどってしまったのである。一方で、ニーチェの不連続的特異性に足場をおきながらも、そちらに足をすくわれたのである。ガタリは、確かに、不連続性を指向していた。しかし、明確に、不連続的差異という理論には達しなかったと思う。また、ベンヤミンについて言うと、ライプニッツの思想を評価して、不連続的差異が、連続化されたと言えよう。結局、プラトンの原型イデアの連続/不連続性の両義性の支配下にあって、西欧文化は、答を出せなかったと言えよう。ホワイトヘッドのいう西欧哲学はプラトン哲学の脚注に過ぎないという名言、警句はけだし正鵠を射ていたと言えよう。原型イデアから不連続的差異イデアへ。


p.p.s. プラトンイデア論が、原型イデア論(正しくは、メディア界的原型イデア論ないしメディア界的イデア論である)ならば、ハイデッガー存在論とは何か。ハイデッガープラトンに近いところを問題にしていたと思う。原型イデア性があるために、民族主義に染まったと思う。ところで、中沢新一が、田辺元の「種の論理」を評価していたが、それは、原型イデア論と通じるだろう。これは、中沢が構造主義者であることの証左でもある。結局、不連続的差異論の明確な創造性、ブレークスルー性がある。