民主主義とは何か、プラトンとアメリカ先住民の叡智、ゆとり教育崩壊

[叡智学][政治] 民主主義とは何か:自我放縦から差異共生へ


先に、間接民主主義は、資本主義と民主主義との妥協・折衷の産物であると述べた。しかし、アメリカは自国の政治システムが民主主義であるといわば僭称している。実際は、アメリカは貧富の差の極端な反民主主義的社会である。民主主義がイデオロギーとなっているのである。平俗にいえば、いんちき民主主義である。似非民主主義である。問題は、代議制・代表制・間接民主主義という政治システムと民主主義という理念とを明確に区別しないといけないということである。たとえば、前者は形式的民主主義、後者は理念的民主主義と言えるかもしれない。問題は、代表制である。経済は資本主義は支配し、代表制は民主主義を建前とする。資本主義は、利潤という無情の数字が支配する、機械的暴力主義である。当然、民主主義とは矛盾するのであり、代表制は、このだましを演ずる芝居小屋である。民主主義幻想芝居である。擬制、偽装、虚偽の民主主義である。偽札ならぬ偽民主主義である。真正の民主主義にしないといけない。しかし、この代表制を廃棄するというのではない。自由主義的資本主義を批判する監視が必要である。少なくとも民主主義的資本主義になるようにすべきである。また、自由主義であるが、これも用語が誤解を生む。これは、利己的闘争主義である。つまり、利己的闘争主義的資本主義と差異共生民主主義的資本主義がある。換言すると、父権的資本主義と母権的資本主義がある。自由主義の自由とは、自我放縦であろう。だから、自我放縦主義と言うべきだろう。自我放縦的資本主義と差異共生的資本主義がある。そして、自由とは実は、差異にあるのであり、差異共生こそ、個の社会・コミュニティ的自由を保障すると言えよう。まったく、用語が本来からずれているのだ。そして、差異共生民主主義的資本主義とは、自我放縦資本金融制度を、共生資本金融制度に変革するだろう。そう、自我放縦資本金融経済から、差異共生資本「アソシアシオン」に変容するだろう。共生資本主義とでも言おうか。

ビル・トッテンの警鐘
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog071.html
ネオコンの復活
http://tanakanews.com/f0216bush.htm



[叡智学][政治] 不連続的差異・イデア論アメリカ先住民の叡智

先に、プラトンの善のことで、推察したが、それは、差異均衡公正強度、公正、均衡、正義ということであった。つまり、人間の公平感、正義への倫理とは、ここから発していると考えられる。以下の引用から、アメリカ先住民も、このような正義・公平・バランスの倫理感覚をもっていたことがわかる。(日本人の判官びいきもそれに似ているだろう。)なぜ、この公平・公正・平等(民主主義)の倫理が、時空を超えて存するのかと言えば、すでにおわかりように、本源・根源界であるイデア界がそのような倫理強度を本来もっているからということである。絶対普遍的なイデア界の普遍倫理が民主主義の源泉である。しかし、これを今日、また新生すべき時になった。イデアルネッサンスである。そう、これこそ、本源回帰であり、世界・地球ルネッサンスである。


「■ 民主主義に足りないもの ■


【天外】 アメリカの建国時、イロコイ族のノウハウがたくさん使われました。当時5部族だったイロコイ族の紋章は鷲が矢を5本束ねているものでしたが、アメリカは13州だったので紋章はその矢を13本にしました。また米議会が上院と下院に分かれているのもイロコイ5部族のやり方です。ただこれは一部にすぎなくて、イロコイ族では問題があると賛成する部族と反対する部族を2つ決め、あと1つそれを見守る部族を決めました。この見守るところがアメリカが輸入できなかった部分です。アメリカが建国され、フランス革命があり、世界に民主主義が広がったまでは良かったけれど一番肝心なこの部分が導入されなかった。2 者でなされる議論を1つの部族が見守るのですが、見守る基準があり、これをナバホ族の言葉で「ホッジョー」と言います。正確に翻訳できませんが、誠実とか正直とか調和といった意味でしょうか。つまり自分のエゴのための議論をしてはいけないというものです。アメリカ先住民は“ワカンタンカ”という大いなる神秘が見ておられるので自分の利益のために議論をしてはいけない、大きなことは7世代先のことを考えて決めないといけないとされています。そのために必要な精神がホッジョーです。ですから議論の内容ではなく議論がホッジョーにのっとってなされているかだけを見ていく。上下院を作ったアメリカは、一番すばらしいこのホッジョーの精神を導入しなかった。これは世界の民主主義の大失敗だったと思います。」

http://www.ashisuto.co.jp/magazine/topic.php?A=58&B=573から



[教育] ゆとり教育の崩壊

文科省の責任を問うべきであるのだが、どういうふうに問うべきか。教育の問題は、極めてセンシティブである。私は、中教審有識者で決めるというのは、根本的に間違いだと思う。上意下達ではなく、下意上達であるべきだろう。また、教育理念の根本的議論が必要だと思う。教育とは何か。これは、哲学的問題でもある。理性と知性の区別がない理論であったり、個に立った教育がなければ、教育は、青少年に害悪となる。地方分権に倣えば、教育分権である。中央集権では、日本沈没である。今の子供たちは、大犠牲者・被害者である。官僚の国民審査が必要ではないか。

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050216k0000m010123000c.html
http://www.tokyo-np.co.jp/00/sei/20050215/eve_____sei_____002.shtml
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20050215AT1G1501O15022005.html
http://www.asahi.com/national/update/0215/031.html
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/gijigaiyou/002/020502.htm