性器の哲学と差異均衡公正強度・エロース

男性性器にしろ、女性性器にしろ、不思議なものである。不連続的差異論から見ると、前者の勃起は、強度発露であり、また現象界での発現・出現・出来事という直観があるし、後者は、メディア界であり、その亀裂は正にメディア界の境界性であり、その亀裂の内奥に、現象界からは不可思議なイデア界が予感されるという観をもつ。ならば、性交とは、現象界とイデア界との結合であるメディア界的出来事である。道祖神猿田彦はこれだろう)、ヘルメス神は、これを神話表象しているだろう。卵とは、イデアであろうし、また、精子イデアであろう。イデアイデアとの新たな共立を創造するものとして、性交/妊娠/出生があるのではないだろうか。あるいは、不連続的差異と不連続的差異との創造的共立。
 もう少し、展開させよう。先に私は、精神のイデアと身体のイデアの媒介として「霊魂」=エロス(世俗化されたエロスと区別して、これから、エロースを使用しよう)をいわば作業仮説した。それを差異共生均衡強度と呼んだ。このエロースに相当するものを、当然、性の共立に適用できるだろう。性のイデアのエロースである。ローマ神話でおなじみキューピッド(最近あまり目にしないが、どうなっているのだろうか。画一的なハートのマークが顕著である。)に当たるものであり、それは、女男の「恋」の取り持ち役である。しかし、盲目であるから、不連続的セクシュアリティの共立である。そう、このキューピッドの盲目性・不連続性に大いなる意味があるように思われる。エロース=キューピッドは不連続的差異の共立連結(近接化)をもたらす原因と考えられるのである。そして、さらに展開して、では、このエロース=キューピッド(略して、エロキュー?)は強度と関係するのではないか、というか、強度なのではないかという推量が浮かぶ。エロース=キューピッドは、性の作動因である。それがなければ、性の差異は差異のまま、つまりデュナミス(静止状態)として、留まるだろう。(ここで、エロース=キューピッドとは、死による発動に近いと直観する。)しかし、エロース=キューピッドが発動するや、性の差異は性の差異との共立連結の「情動」に駆られる。やはり、エロース=キューピッドは強度と言うべきであろう。ということは、差異・イデアの連結化を発現させる強度としてのエロース=キューピッドがあるということである。ここで、先の精神のイデアと身体のイデアとの差異共生均衡強度としてのエロースに返ると、この強度・エロースの発動・エネルゲイアが、現象化を発生させると言えるだろう。つまり、精神のイデアと身体のイデアとが連結することで、現象界の人間として出生すると言えよう。さらに展開的に推測すると、この強度・エロースこそ、全存在の原動力ではないのか。アリストテレスが原動天、ロレンスがコスモスの主と呼んだものは、これを指していよう。とまれ、ここには、イデア・差異と強度・エロースがあるのである。では、この関係システムはどのようなものなのかということになろう。今、私の予測では、プラトンが善と呼んだものが、この強度・エロースに当たるのではないかということである。つまり、イデア界の奥の院というべき善と強度・エロースとが一致するのではないかという予測である。思うに、善とはバランス・均衡・公正・正義・秩序・調和等々である。そして、現象界では不正がはびこっている。この不均衡、中沢新一的に言うと、非対称性に対して、善はそれを改めるように欲すると言えよう。つまり、善の公正強度があると言えるのではないだろうか。この善の公正強度(正義・バランス強度)が、エロースであり、差異・イデアの共立連結を生み、現象・現実化するのではないか。そして、このエロースはいわばRNAのように現象界の不公正をメディア界を通って、イデア界に伝達して(そう、エロースは交通・情報・商業の神ヘルメスである)、必要な公正強度を発生させるのではないか。ここまで、考えてきて、私は、メディア界(いわば、エロース界)こそが超根源ではないのかという気がしてきたのである。イデア界は普遍界である。それは、いわば静止している。差異と差異とが共立して静止している。それは、普遍的コンテンツとでも呼べる根源界ではないか。しかし、それは、動的ではないだろう。現象化するには、駆動力が必要である。一突きが必要である。ということで、メディア界・エロース界は実は、公正強度界であり、これが主体・基体となり、イデア・差異の新たな連結を生むのではないだろうか。つまり、イデア界は普遍的な材料の場であり、これを活用して新たな創造をうむのが、メディア界・エロース界ではないのか。プラトンで言えば、善の領域である。少し勇み足かもしれない。とまれ、問題は、プラトンの善の領域をどう位置づけるかである。あるいは、公正・正義・均衡の領域である。思うに、善と不連続的なエロース・キューピッドは、一如ではないのか。不連続的差異と不連続的差異とを後者は「盲目」に連結させる。たとえば、精神のイデアと身体のイデアとを共立連結させる。これは、両者のバランスを意味しているだろう。そう、アプレイウスの『黄金の驢馬』にプシュケーとエロースの結婚のエピソードがあるが、それは、この意味ではないだろうか。(思えば、D.H.ロレンスが『チャタレイ夫人の恋人』で表現しているのも同様のことと言える。)この盲目=不連続性=偶然性に根本的な意味があると思う。イデア・差異の潜在しているイデア界はいわば静止している。そして、差異と差異とは均衡しているのであり、この均衡強度がある。これは、静止のエネルゲイアである。これでは、発動しないだろう。いわば、シャッフルが必要である。イデアAとイデアBとの静的均衡を破るべく、シャッフルの強度が発動せねばならないだろう。このシャッフルの作用はどこから発するのだろうか。(ここで、トリックスターのことが浮かんだ。また、道化のことが。ジョーカー。タロットは、フール(愚者)・ゼロから始まる。)
 ここで、議論を元へ返して、検討しよう。つまり、やはり、イデア界が根源であり、シャッフルの強度は、ここから生まれると。イデア界の静的均衡と言ったが、実はイデア自体は、静的ではなくて、動的であるのではないか。つまり、イデア自体差異運動していると考えられる。たとえば、スピン・回転である。このイデア自律運動・活動・回転こそ動的であり、静的に見えるのであろう。つまり、イデア・差異自体にエネルゲイアが内在しているのであり、このエネルゲイアとしてのイデア・差異の共立態がイデア界であり、それは、実は静的ではなくて、動的にゆれうごいているのではないか。いわば、クリナーメンである。このイデア・差異の内在的な動態性によって、新たなシャッフルがうまれるのではないか。差異1と差異2の共立1/3から、共立2/3へと転化する。あるいは、差異1と差異3が新たな共立強度をもつ。そう、やはり回転ではないか。角運動のようなもの。回転の度合いによって多種多様な共立連結が生じるだろう。つまり、差異内在的回転運動によるシャッフル強度があると言えるのではないか。差異角運動によるシャッフル強度である。これによって、メディア界が規定され、現象化、外化する。そして、この外化して個物は、受動反動的に、不均衡、不公正をはたらくだろう。自我の傲慢・暴力・破壊等々。しかし、個物(人間)には、メディア界が内在し、イデア界に通じている。イデア界は、確かにシャッフル強度があるとは言え、差異の共立均衡・公正・秩序は保っていると言えよう。つまり、イデア界に原因あるとは言え、現象界での不均衡・不公正を是正する作用がイデア界からはたらくと言えよう。保障・相補強度である。これは、正義・均衡・公正(正義)強度である。(たとえば、ブッシュ、小泉、金正日、中国やロシアの首長等に対する怒りはそのようなものだろう。)このように考えると、先に想定した善の世界=メディア界は不要となる。ならば、プラトンの善の世界とは何かといえば、それは、やはり、イデア界である。イデア界のもつ差異均衡公正性のことを指していると考えることができよう。
 最後に、所期のエロースの問題であるが、女男のエロース=キューピッドも差異均衡強度と言えるように思える。ずいぶん、以前に述べたことを繰り返すが、イデア界的である女性と現象界的である男性との差異均衡強度としてエロース=キューピッドがあると思う。つまり、イデア界で言えば、精神のイデアと身体のイデアとの差異均衡強度と等価であろう。それは、神話的には、イシスとオシリスの神話、イザナミイザナギの神話、折口信夫の『死者の書』で言えば、大津皇子と耳面刀自・郎女の物語である。D.H.ロレンスの『逃げた雄鳥(死んだ男)』で言えば、復活したイエスオシリスと探索するイシスの巫女との小説である。イデア界の差異均衡公正強度という偉大な原理がはたらいているのである。これが、真実の動的な原理であろう。イデアダイナミクスイデアエネルゲイアイデア・プシュケー、イデア・エロースである。魂、霊魂、聖霊、ソフィアとは、このことを意味しているだろう。

p.s. ロレンスがコスモスと呼んだものは、また、ドゥルーズガタリカオスモスとは、このイデア・プシュケーに他ならないだろう。この動的なイデア界こそ、様々な宗教や神秘主義等で説かれた究極の王国・神の国・浄土等であろう。正に大いなる、畏るべきイデア界である。中国神話の龍は、これを指しているのだろう。イデア界の正義がやって来るのだ。驕り高ぶる権力者、傲慢者たちよ、恐れよ!! ついに、永遠に正義なる、公正なる、秩序たるイデア界が黙示されたのだ!! 正義の女神アストレーアの強度が驕れる者を襲うのだ。イデア・アストレーアと言ってもいいだろう。