ポスト・グローバリゼーション:ガイア・マルチチュード革命へ向けて

先に、近代西欧の出発点の二本柱を提示した。すなわち、ルネッサンスプロテスタンティズムである。前者は、イデア界的強度をもち、後者は自我的反動強度をもつと、不連続的差異論から推論することができる。このいわば正反対の要素が近代西欧の破壊かつ創造的原動力である(あった)と見ることができる。つまり、前者は、単に芸術だけでなくて、私見では、民主主義(自由・平等・博愛)を生む強度をもっていた。正確に言えば、キリスト教の平等思想や隣人愛の思想と結びついて、西欧民主主義を創造したと思われる。そして、後者、プロテスタンティズム個人主義を生み、近代合理主義と近代自我主義と結合して、資本主義と一如となったと言えよう。とまれ、民主主義と資本主義という対立要素が近代西欧に生じて、その妥協的結合の産物として間接民主主義、代議制が生じたと考えられる。だから、妥協、折衷の産物である間接民主主義には、民主主義と資本主義の闘争が熾烈に存在しているのだ。あえて、「階級闘争」と言えば言える。問題は用語ではなくて、その闘争の現実である。つまり、資本主義側は、代議制を利用して、国民を味方につけないといけないために、情報・メディア宣伝戦術を使ったり、あるいは、多数の力を得るために政治資金を多額に使用するのである。簡単に言えば、国民を取り込む努力ないしパフォーマンスが必要なのである。国民という力を味方につけないといけないのである。つまり、資本主義は、民主主義という異質なものを取り込み、仮面にするのである。資本主義はもともと大資本の利益中心主義であり、反民主主義的ということである。
 しかしながら、今日、グローバリゼーションによって、アメリカという「帝国」によって、アメリカ民主主義が理想型のようになってしまっている。しかし、何度も繰り返すが、間接民主主義は、資本主義と民主主義との妥協の産物であり、未完成態である。両者の矛盾から闘争が常に潜在し、顕在し、また、前者の抑圧があるのである。
 ということで、ポスト・グローバリゼーションとして、マルチチュード革命が考えられるのである。これは、ルネッサンスの回帰であり、また、キリスト教の新生でもあろう。つまり、母権的なキリスト教の新生である。すなわち、ルネッサンスキリスト教の新生としての民主主義革命としてのマルチチュード革命である。そして、このとき、これまでの左翼的な発想はすべてご破算にして、資本主義と併存して、共生経済を構築して、資本・共生平行経済として、法定相補通貨体制を取る。先進国の富を共生資本に還元して、自国と貧困国に環流させるのである。そして、世界差異共創共生経済を少しずつ形成していくのである。資本主義という悪の牙を抜いて、共創共生経済のための駆動力に変容するのである。そう、これは、周辺から、地方から、もう始まっているのだろうが、「中心」においても、流れを創る必要がある。ガイア・グローカルマルチチュード差異共創共生革命に向けて。

p.s. 近代西欧形成の原動力的要素とは、整理すれば、
1.ルネッサンスと母権的キリスト教→民主主義
2.プロテスタンティズム(近代合理主義)→資本主義(自由主義保守主義
である。マルチチュード革命とは、1を不連続的差異論によって賦活新生させ、また2を、資本/共生平行主義、法定相補通貨体制等を通して、差異共創共生主義へと変容させることだろう。一言で、言えば、不連続的差異論的共創共生経済革命である。

p.p.s. 当然、多神教大乗仏教も新生するし、イスラム教はますます進展する。世界多元的宗教共生が生起するだろう。


cf. マルチチュード
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%EB%A5%C1%A5%C1%A5%E5%A1%BC%A5%C9
http://www16.tok2.com/home/asyura/0406/dispute19/msg/546.html
http://www.asyura.com/2002/dispute3/msg/107.html
http://www16.tok2.com/home/asyura/0406/dispute19/msg/551.html
http://homepage2.nifty.com/tsukaken/project/empire/intermission.htm
http://fo-ryuju.ameblo.jp/entry-6b12c569d5bfc539c2b70591e075bf89.html
http://www.asyura2.com/0304/dispute10/msg/281.html

p.s. ネグリの言う「力量」とは、イデア界の能動的強度と見ることができるだろう。

p.p.s. 間接民主主義は妥協とは言え、民主主義形態であり、それを無くすということではなく、それを活用するということである。