超自我とは何か:不連続的差異論からの解明

これは、内在化された権威・権力的に禁止する「自我」であろう。フロイトはこれに道徳ないし倫理的基礎を見ているが、私はそれは、社会的コードであり、真に内在的な倫理ではないと思う。それは、権力関係すなわち支配/従属、抑圧/被抑圧の上下観念を自動化したもののように思う。ニーチェを始め、これを破壊することから現代・ポスト近代が始まったはずである。つまり、外在的倫理ではなくて、内在・個的な倫理への転換である。あるいは、同一性から差異への転換である。
 では、詳しく検討しよう。これまでの検討から、知覚の連続的同一性が形成され、言語分節化して自我となる。もっとも、反動的である。その形成のとき、虚点がある。それは、音声言語超越論的形式である。これは、メディア界の切断でもある。メディア界の両義性を切断して、二元論・二項対立に変じる。父権的ヒエラルキーの形成である。父権神話では、この点が、龍殺し、怪物殺し(つまり、女神殺し。古事記では、八岐大蛇退治である。)となって表されていると考えられる。問題は、このメディア界の切断であるが、この父権的主体は、メディア界の力(強度)を恐れているはずである。いわば、カオスモス的なメディア界の強度(本当はイデア界の強度である)を恐れて、天の父を支えにして、切断化すると言えるのではないだろうか。この天の父が、超越神であり、超自我に相当すると推測するのである。そして、天の父とは、虚点である音声言語超越論的形式のことである。もう少し丁寧に言えば、メディア界の強度の反動性をもった虚点が天の父であり、超自我となるものだと思う。メディア界はイデア界の不連続性をもっていてカオスモス的であり、連続的同一性からは、カオスと見られるものである。つまり、ここにおいて、価値観の逆転があると言えるのである。すなわち、不連続的差異的カオスモスから連続的同一性的コスモス・合理性への価値観の転換である。主体において、両者の価値観がある。しかし、今や、後者が主体となり、前者を切断して、連続的同一性の二項対立的「秩序」を構築するのである。このとき、虚点が、超越神として意識されると思われるのである。これは、無意識である。故に、超越神となるのである。つまり、連続的同一性=自我の価値観の支点として、虚点が超越神として要請されるのである。(ラカンで言えば、父の名であるが。) 当然、この虚点、超越神は、連続的同一性=自我の絶対的規範・コードとなるものである。聖なる天の父である。ということで、やや粗略であるが、超自我の問題を、不連続的差異論から解明したことにしたい。