太陽と月の神話とは何か:イデア論的ミクロ・マクロコスモス論

月は地と結びつく。また、女性と。視点を変えよう。不連続的差異論から光を見ると、イデア界が真実の光である。メディア界とは真光と現象光との両義性をもち、現象界は影の光をもつ。そして、エ現象界は生死が交替する。たとえば、アドニス神話は美青年の死を悼むものである。思うに、これは、現象界の生死循環のことを意味しているだろう。また、エジプト神話では、オシリスが死にばらばらにされる。しかし、イシスがそのばらばらの破片となった肉体を集めて復活させる。思うに、古代オリエントの神話では、男性神の方が現象界であり、女性神(女神)が、復活させる力である。どちらも自然の力と見ることができるかもしれない。しかし、より現象に近いのは、男性神の方だろう。女性神が主体である力である。だから、太陽と月との関係でいうと、女性神が太陽であり、男性神が月だと思えるのである。「原始、女性は実に太陽であった」。卑弥呼(日巫女)やアマテラスはそのようなものに思えるが。ヨハネ黙示録に「日を着たる女」が出てくるが、それもそのようなものだろう。おそらく、基本的な世界観は、女性ベースにした自然観である。ガイアである。このような母権的神話を、父権神話は逆転させて、男性が太陽を簒奪して、太陽としての女性を、貶めたと言えよう。しかし、太陽についていうと、太陽としての女性の「太陽」とは、現象界の太陽というよりは、イデア界の太陽であろう。太陽のイデアではないだろうか。そして、月も本来、女性に含まれていただろう。というか、母権制の時代は、コスモスは女性的であったと考えられる。コスモス=イデア=女性神である。太陽と月との結婚とは、思うに、精神と身体との結合ではないのか。精神のイデアと身体のイデアの差異共立均衡連結ではないか。つまり、イデア界の差異共立の事態を指しているのではないだろうか。そう、太陽が精神で、月が身体ではないか。
 さて、ここでさらに展開すると、太陽のイデアと精神のイデアとの関係である。さらに言えば、惑星のイデアと精神のイデアとの関係である。(当然、占星術や古代宇宙論のことも背景にある。プラトンの『ティマイオス』やケプラー宇宙論等。)つまり、イデア界において、太陽のイデアと精神のイデアはどう関係するのか。推察するに、両者は相似的ではないか。太陽のイデアは惑星のイデアと共立する。精神のイデアは身体のイデアと共立する。太陽のイデアと精神のイデアは、調和するのではないだろうか。共通項は「光」ではないのか。遍く照らすもの。叡智の光であり、恵みの光である。思うに、実は、光のイデアが共通の原点であり、宇宙において太陽となり、人間においては、精神となるのではないのか。これを敷延すると、あるイデアが宇宙における惑星(たとえば、金星)となり、人間においてある身体となるということがあるのではないか。神秘学では、ミクロコスモスとマクロコスモスとの照応が説かれるが、このイデア論からすれば、それはミクロコスモスとマクロコスモスとの平行・パラレルとなるだろう。ある意味で照応ではあるが、平行・パラレルと言うのが適切である。すると、イデア論的ミクロコスモス平行マクロコスモスという考え方が出てくる。これは、古代宇宙論占星術を乗り越えるものである。D.H.ロレンスは、人間とコスモスとは一体であると最晩年の『黙示録論』で述べたが、それは、究極的には正しいだろう。コスモスをイデア界と先ず、取るべきである。だから、人間とイデア界とは一体であるということである。しかし、また、コスモスをマクロコスモスととれば、ミクロコスモスとマクロコスモスとはある意味で一体である。しかし、正しくは、ミクロとマクロとの平行的一致である。