不連続的差異論と気:物質と精神と「魂」

スピノザは心身平行論を立てた。すなわち、精神と身体とが平行する理論である。だから、二元論であり、両者をつなぐものは、おそらく実体であろう。不連続的差異論から見ると、精神のイデアと身体(物質)のイデアとが、イデア界では不連続である。しかし、不連続的差異の共生があるのである。精神と身体とは共生していると考えられる。そして、そのとき、差異共生均衡強度というものがあると考えられよう。この強度が、いわゆる「気」なのではないか。それは、精神と身体の両者を交通するから、精神とも言えないし、物質とも言えない、いわば相補的存在である。精神と身体の相補性があると言えるだろう。そして、敷延して推測すると、いわゆる「魂」というものは、この「気」と関係すると思う。元々、アニマ(anima)と呼ばれたものは、生命力の根源である。「気」も生命力と考えられている。ということで、「魂」とは、「気」と連結している、精神と身体の差異共生均衡強度態のことと言えるのではないだろうか。だから、心身差異均衡強度態として「魂」があるということになろう。いわゆる「霊」とか「霊魂」というのは、このことを意味しているのではないだろうか。差異均衡強度態としての「霊」ということだろう。精神のイデアは普遍的であるが、「霊」も普遍的であろう。すると、精神と身体との一種メディアとして「霊魂」があるということになろう。(ひょっとして、三位一体とは、精神・身体・霊魂のことではないだろうか。これをキリスト教は父・子・聖霊としたのではないか。しかし、以上からみると、これはキリスト教に限定されず、普遍的である。古事記の場合、「あめのみなかぬし(天之御中主)、たかみむすひ(高皇産巣   日)、かむみむすひ(神皇産巣日)、の三柱の神々『造化三神』」
http://www5c.biglobe.ne.jp/~izanami/monogatari/02.htm
があるが、これはこのことを意味しているのではないだろうか。どれがどれだか不明だが、イデア界の三位一体を反映しているのではないか。神社の三つ巴の紋は、これを意味するように思えるが。また、カール・ケレーニイの神話学から、女神の三位がある。デーメーテール、コレー、ヘカテ(天と地と死?)である。また、美の三女神がある。運命の三女神もある。(さらに敷延すると、イシス/オシリスキュベレ/アッティス、ヴィーナス/アドニス聖母マリアとキリスト等々の古代オリエントの神話もこれと関係しそうである。あるいは、アマテラス、月読み、スサノオ。思うに、イシスとオシリスとのメディアがあるはずである。聖母マリアとキリストとの間にあるものが。イシスとオシリスとの間の聖霊とは何か。思うに、D.H.ロレンスは、ファロス(男根)がそうであると晩年述べていた。ならば、ファロスである聖霊? そう、エロスだ。プラトン哲学はエロスの哲学である。ロレンス的に言えば、優しさのファロス。やさしさのエロス。キューピッド。女男をつなぐものは、エロス、やさしさ、ファロスである。プラトン/ロレンス哲学である。考えてみれば、日本の神々はきわめてエロス的である。道祖神は、エロスである。先に「霊魂」と言ったものはエロスであろう。エロス=霊魂=プシュケー。これがプラトニズムである。精神と身体との差異均衡強度態である「霊魂」とはエロス=プシュケー=アニマである。そう、これを西欧は二元論的に分裂させたのだ。精神と肉体というように、そうではなくて、もともと、「霊魂」=エロスなのだ。精神と身体との差異均衡強度態であるから、両義的である。精神であり身体であるのだ。これが、プラトン/ロレンスのエロス・イデア哲学であろう。
 では、素粒子と、「気」や「魂」はどのように関係するのだろうか。素粒子は物質である。しかし、粒子と波動の相補性をもつ不思議な存在である。今は断言できないが、ひょっとして、差異均衡メディアの物質極ないし物質面を指しているのではないだろうか。図示すると、

Ⅰ精神のイデア/Ⅱ差異均衡強度態(「霊魂」・「気」)/Ⅲ身体のイデア

ⅡとⅢとの境界に素粒子ないし量子が存するのではないだろうか。物質ではあるが、境界的存在であろう。