虚点と超越神と超越論的形式:音声言語超越論形式

[叡智学] 虚点と超越神と超越論的形式:音声言語超越論形式

この問題を出直して検討したい。問題は超越論的形式である。主観形式であり、主観原分節と言語分節の結合したものではないだろうか。主観原分節は、言語分節の基礎である。具体的に考えよう。花がある。幼児は、主観原分節において、花を感覚しているが、それが何であるか知覚・認識できない。なぜなら、言語分節化されていないからだ。すなわち、「はな」という音声によって、それを花と認識知覚する。すると、音声/ロゴス認識形式が主観にはあると言えるだろう。ならば、カントの超越論的形式とは、この音声/ロゴス認識形式のことではないだろうか。ここで整理すると、

イデア界/メディア界(客体的原分節ー主体的原分節→音声/ロゴス形式=超越論的形式)/現象界

となるのかもしれない。ここで、ロゴスの問題がある。私としては、ロゴスをイデアに近いものとして把握しているので、別の言葉を使用しないといけない。だから、音声言語形式としよう。だから、整理しなおすと、

イデア界/メディア界(客体的原分節ー主体的原分節→音声言語形式=超越論的形式)/現象界

となる。そして、連続的同一性である自我を考えると、それは、音声言語形式=超越論的形式に基づくと言えよう。また、所期の問題である虚点であるが、これも音声言語形式=超越論的形式(以下、音声言語超越論形式としよう)に基づくと言えるだろう。そして、虚点は父の名、超越神に相当するとみることができよう。しかし、
音声言語超越論形式=虚点=自我なのだろうか。たぶん、そうだろう。さて、ここで、超越神の問題を考えると、思うに、ほぼ以上の考察で説明されるように思われるのであるが。つまり、連続的同一性=自我とはメディア界への反動である。多神教母権制への反動である。つまり、精神分析的に言えば、死の欲動による反動である。死の欲動とは、実は、イデア界の強度の反動である。反動強度である。だから、反動強度をもつ連続的同一性=音声言語超越論形式=自我が、自己目的的に、超越神に「格上げ」されるのである。そして、これが、ユダヤキリスト教的世界観となる。
 これに対して、多神教は、メディア界の強度があるために、音声言語超越論形式=自我に束縛されないのだろう。また、表意文字を使用する場合は、自我が発達しないと見ることができる。また、イスラム教について言うと、それは、二重の宗教であり、一つは父権的一神教であり、一つはイデア論的宗教である。故に、ユダヤキリスト教のようには自我に束縛されないと見ることができる。そして、大乗仏教であるが、それは、イデア論的宗教(空=イデア界)であるので、自我を解体する教理をもつ。
 ということで、所期の問題を解決したこととしよう。