不連続的差異論とデリダとラカン

[叡智学] 不連続的差異論とデリダのロゴス中心主義批判:視覚と聴覚


デリダ脱構築主義とは、音声/ロゴス中心主義に対して、エクリチュール(文字、書記)の必要を説いて、前者の一元論を否定したと言えよう。不連続的差異論から見ると、音声/ロゴスとは、超越論的形式のことであり、それへ批判は正しい。エクリチュールの問題であるが、(今日新たに問題化しているだろう。つまり、携帯電話やパソコンで、文字書記の問題が出ているからである。これについては、別に論じたいが、触覚の問題も大きいのではないか。)アルファベットを使用する言語では、音声表記が重要になるだろうが、例えば、表意文字である漢字を使用する言語の場合が、参考になるだろう。ある対象をある表意文字ないし漢字で表記するとき、それは、超越論的形式ではなくて、物自体を対象にしているとも言えるのである。つまり、太陽の場合、物自体としての太陽と超越論的形式としての太陽がある。音声/ロゴス中心主義は、後者となろう。しかし、表意文字は、前者をも指しえよう。なぜならば、視覚をふつう考えられるより、身体感覚として、メディア界性をもつからである。表音文字は、文字抽象度が高く、より言語化されているのであり、音声/ロゴス中心主義に即するものであろう。それに対して、表意文字とは、メディア界的であろう。例えば、「川」という字でもいいが、これは、川という対象のエッセンスの表記であり、イデアに近いと言えるのではないだろうか。表意文字は、メディア界的であり、イデア界に触れているのではないだろうか。これを、デリダエクリチュールとりわけアルシエクリチュールで考えたのではないだろうか。少し飛躍するが、日本人がアニメや漫画が得意なのは、この漢字文化に関係するのでないか。より的確に言えば、漢字文化と結びついた多神教文化と関係するのではないだろうか。

p.s. 私は、聴覚の方が視覚性より身体的だと思ってきたが、どうも違うのかもしれないと思えている。例えば、コスモスと言った場合、それは、視覚から身体知覚されるものであるし、大きな山容を見て、深く感動するのも、視覚が身体化されるからではないか。聴覚、とりわけ音楽であるが、それを身体化するのは、意外に視覚身体知覚を介してではないだろうか。百聞は一見に如かず。この点は、あとで、検討しよう。


[叡智学] 虚点と父の名:不連続的差異論とラカン精神分析

この問題は、父権制、超越一神教、自我、西欧とは何かを解くためのキーポイントである。ラカン精神分析では、想像ファルス(母の男根性)から父の名への移行がある。これは、不連続的差異論から見ると、メディア界における連続的同一性への移行を意味するだろう。そのために、メディア界の不連続的差異性、イデア界性、イデア面(極)を否定・回避・追放するのである。問題は、父の名であり、虚点(超越神)である。先にラカンから見よう。それは、父の名という原シニフィアンによって、想像界(母子関係ないしエディプス関係)を抑圧し脱して、象徴界(言語界ないし言語自我界)を構築するという理論である。不連続的差異論から見ると、メディア界の両義性から連続的同一性へと転換するのであるが、そのとき、父権超越神的システムが機能する。つまり、虚点を支点として、この転換を為すのである。この虚点とラカンの父の名とはパラレルである。
 ここで、フロイトの有名な孫の糸巻き遊びに返ろう。母親の不在において、糸巻きをベッドの下にもぐらせて、フォルト(無)、そして、それを戻して、ダー(有)と言う。これは、受動反動欲望による。とまれ、ここでは、ダー(音声)と糸巻きと母親とは一如であるが、母親がダーと糸巻きへと移行していると考えることができる。つまり、音声(受動反動欲望)と糸巻きの一致という原言語性がある。イメージと音声との連続化がある。この場合、音声(受動反動欲望)が、本来の母親への欲望とズレ・差異を生じていることに注意しないといけない。つまり、身体的欲望から言語的欲望、観念・知的欲望への移行・転換性である。この差異的飛躍が鍵である。これは、原初的な身体的欲望から頭脳(大脳皮質)への転換である。連続的同一化への転換である。つまり、本来の差異、特異な差異が捨象されて、言語という連続的同一性へと転換するのである。差異が同一性へと転換されるのである。しかし、差異は消えてはいないのであり、差異が無視されると言うべきであり、このため言語はある種欺瞞・擬制性をもつのである。これが、精神分析から見た、象徴界・言語自我界への転換の意味だろうが、この転換のメカニズムを理解しないといけない。精神分析では、死の欲動をこの点に見ている。つまり、これが、母なる対象を無化して、言語形成へと向けるという考えである。不連続的差異論から見ると、受動反動欲望(これが死の欲動の当たろう)は、擬制として、対象の代替を求めるのである。つまり、ダミーとしての言語である。代理としての言語である。あるいは、フェティシズム(物神)としての言語である。そして、核になるのは、連続的同一性としての自我であろう。カントで言えば、超越論的形式としての自我であろう。これが虚点である。つまり、超越論的形式と結ぶ言語(音声)があるだろう。(ここで、デリダの批判を想起する)すなわち、音声言語を通して、差異の同一性への転換が生起するのである。音声言語とは、超越論的形式のメディアと言うべきではないだろうか。とまれ、音声言語を媒介として、超越論的形式が確固たるものになると言えよう。そう、超越論的形式=音声言語ではないだろう。音声言語が前者を確立するのだろう。(超越論的形式とは、ほぼ原分節性と言ってもいいのではないだろうか。つまり、これは、メディア界のもつ分節性と言えるだろう。メディア界の現象極・現象面の形式だろう。そして、プラトンが、たとえば、花のイデアと言ったのは、このメディア界の超越論的形式ではないだろうか。イデアは二種類あるだろう。イデア界のイデアとメディア界のイデアである。本来はイデアは当然前者である。)整理すると、虚点とは、メディア界の超越論的形式のことだろう。これが、音声言語と結合して、自我を形成すると言えるだろう。だから、ラカンが父の名と言ったものは、実は、メディア界の超越論的形式のことである。つまり、メディア界の連続的同一性の原分節性のことである。これが、父権的超越神、そして父の名の本体である。