意識システムの変容、その他

[叡智学] 意識のシステムの変容:自我から身体個へ:新生の大潮


いろいろな観点から見て、今日、自我システムの変容が迫られていると考えられる。経済、社会、文化、精神等々、自我システムが行き詰まってしまっているのであり、それに対して、身体的基盤による個体性の意識への変容が必要になっているのであり、またそれが少しずつ起こっていると考えられる。簡単に自我意識形成についてみると、これは、身体感覚的受動から発している。だから、自我意識は本来、反動的である。そして、この反動的である自我を積極的に肯定したのは、近代西欧ないし西欧文化、すなわちキリスト教文化である。そして、これは、今日、グローバリズムという形で、「帝国」の形を取るようになっていると見られる。(「帝国」 の問題は別に検討しなくてはならない。)思うに、自我意識ないし自我文化はここにおいて最終的段階に達したという思うのである。つまり、近代西欧/西欧は、その可能性を出し尽くしたと考えられるのである。だから、この点では、歴史の終焉を言うことができよう。ただし、西欧史の終焉である。(かつて、シュペングラーは、『西洋の没落』を説いた。)
 そして、自我意識の変容として、身体的個体意識が考えられるのである。それは、身体感覚受動反動から、身体感覚能動肯定への転換である。これを西欧において説いたのはスピノザ(『エチカ』)である。そして、ニーチェ/ロレンス、ドゥルーズ等へと続く。しかし、東洋には、もともと身体の文化、気の文化があった。結局、身体感覚能動肯定への転換とは、東洋文化の再生を意味する。しかし、西欧文化を通しての東洋文化の再生であるから、東西統一文化ということを意味しよう。西欧の形成した知性文化を取り込んだ新たな東洋の身体文化が展開すると言えよう。身体感覚の能動肯定化とは、不連続的差異論から言えば、メディア界の新生であり、イデア界の強度の発露を意味する。すると、反動的であった自我文化は溶融解体して、身体的個体文化へと変容する。これは、差異共生主義を意味するのであり、資本主義は共生経済へと変容するだろう。自由主義的民主主義から差異共生的民主主義へとまた変容するだろう。また、女性文化が新たに新生しよう。なぜならば、女性のイデア界性が評価されるからである。
 ということで、ざっとであるが、どうしても、世界は生まれ変わらないではいないし、そうならなくてはならない。


[政治] 自由主義と民主主義:真の民主主義革命に向けて

米国は民主主義を標榜主唱しているが、その民主主義とは何か。それは、間接民主主義体制のことである。これを前提としたら、それに合致しない国は、矯正の対象となるということになる。思うに、間接民主主義とは何かを考えるべきだろう。これは、自由主義と民主主義という齟齬・矛盾するものの折衷ないし妥協の産物である。だから、決して完成体ではないのだ。このような未完成の体制を、理想とすべきではないことは当然である。自由民主主義という言い方は、この折衷・妥協の目くらましである。そう、だから、言わなくてはいけない。アメリカ民主主義とは、未完成であると。だから、これから真の民主主義への変革が必要なのである。それは、差異共生主義として現れるだろう。ポスト自由主義的民主主義としての差異共生主義、共生経済である。

cf. http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050208k0000m070136000c.html


[環境] 早まる地球の生態系破壊

http://www.tokyo-np.co.jp/00/kok/20050207/eve_____kok_____001.shtml


[宗教] 旧約聖書の「光あれ」とは何か:イデア界と超越神

後ほど、検討するが、予見を簡単に言えば、超越神(自我ないし超自我に相当する。つまり父権的なのもの)は、多神教のねじくれた裏返しと思われる。基礎は多神教であるが、自己の基礎を追い遣るようにした超越的な、バーチャルな神である。連続的同一性という擬制から超越性へと飛躍して成立した神である。つまり、連続的同一性=自我の欲望が空想した神である。だから、自我欲望・エゴイズムに裏打ちされた神である。そして、自己の真のベースである多神教へのルサンチマンがあるのである。多神教のベースにおける劣弱さを超越することで強者ならんとした自我の空想した神である。だから、影としての多神教と表面の超越一神教がある。
 ここで、光の問題を考えると、多神教の光とはほぼイデア界の光であるが、「光あれ」の光とは、現象界の光であり、多神教の光を回避した連続的同一性の光である。そして、神の意志とは、実は、自我の暴力的な欲望のことであろう。このようなものが、ユダヤキリスト教のベースにあるのだから、恐ろしい限りである。誇大/被害妄想的な、精神病(パラノイア)的な神である。後で、もっと精緻に考えよう。


[宗教] イデア界と父権一神教:二種類の光

卑弥呼とは日(火・緋)見子又は日巫女であろう。この日は、一神教の光ではないだろう。それは、イデア界の光だろう。では、一神教ないし父権神話の光とは何か。『ギルガメシュ叙事詩』では、天の牛を殺害して、その心臓を太陽神シャマシュに捧げる。この太陽神の光は、卑弥呼の光ではないだろう。自然、女神を破壊する光である。それは、現象界的光、つまり、連続的同一性の光である。現象界的合理主義の光である。すると、敷延して、一神教系の光とは、現象界の光、物質主義的光、自我の光であり、近代合理主義の先駆であろう。ということで、イデア界の光が、父権的一神教では、消されて現象界の光が取って代わったように思う。錯視がある。前に、卑弥呼教と天皇教との関係で述べたことと同じである。理念の光と知性の光との違いでもあろう。後者は悪魔の光でもある。問題は、後者の宗教が、前者を悪と見ることにあるだろう。つまり、悪魔が自分を善=光として、高貴なもの=イデア界の光を悪とする倒錯した観念である。この倒錯が、キリスト教の発生において起こったと推測する。(聖書編纂の問題、キリスト教会の興隆の問題があるがおいておく。)つまり、当時、二種類の光が存したのであるが、現象界の光が、イデア界の光を吸収するようにして、勝ったのである。これがキリスト教だと思う。キリスト教グノーシス派(『トマスの福音書』)があったが、これがイデア界の光を説いていたのである。しかし、それ以外の父権派は、それを横取るようにして、勝利して、キリスト教が生まれたのだろう。つまり、母権的キリスト教と父権的キリスト教があったのであり、後者が勝利したのだろう。(ロレンスは、『逃げた雄鳥(死んだ男)』で前者を新生させたと言えよう)あるいは、聖書派がグノーシス派に勝利したとも言えよう。つまり、二元論派が、イデア論派に勝利したのである。『トマスの福音書』はイデア論派である。(共観福音書は二元論派で、ヨハネ福音書は、イデア論派であろう。ロゴスはイデアと読み替えられよう。)換言すれば、父権派、一神教派が、母権派、女神多神教派に勝利したのである。イデア界の簒奪があったと言えよう。すると、西欧史は、存在忘却ではなくて、イデア界忘却というか喪失ないし被強奪の歴史である。そして、現在、現象界の光派である悪魔たちが、グローバリゼーションによって世界を牛耳っているのである。
 ということで、一神教系の光は現象界の光であると言えよう。ゾロアスター教の光は、イデア界の光と現象界の光の折衷だと思う。そして、その後、ユダヤ教キリスト教の預言書や黙示録を通して、後者中心になってきたのだと思う。

p.s. たとえば、ご来光の光は、イデア界の光である。現象界の光を通して、イデア界の光を仰ぐということだろう。

p.p.s. なお、イスラム教であるが、私見では、父権的一神教ではあるが、タウヒード(存在の一性)の考え方が一種イデア論的である。だから、一神教におけるイデア界性の復活と見ることができよう。アッラーイデア界とすれば、完全に普遍化されるだろう。

3p.s. 阿弥陀仏の光とは、イデア界の光である。また、弥勒仏等が女性的に表現されるのは、正鵠を射ているだろう。つまり、イデア界とは母権的、女神的だからである。
http://www.ne.jp/asahi/kan/music/htnew2/htnew45.htm
http://www.saganet.ne.jp/nanayama/hand/amida/amida.html
結局、大乗仏教とは、イデア界的宗教である。すると、ユダヤ教キリスト教ーーイスラム教ーー大乗仏教ーープラトン/不連続的差異論という現象/イデアスペクトラムが想定できるだろう。
http://www.ne.jp/asahi/kan/music/htnew2/htnew45.htm