霊峰富士とメディア界:芸術ルネッサンスに向けて

不連続的差異論は、美術、芸術、自然の見方も変革する。カントが『判断力批判』で述べている美と崇高の二元論は、不連続的差異論で統一・整合的に説明されるだろう。つまり、両者はメディア界のあり方で規定されると考えられる。すなわち、不連続/連続性という両義性をメディア界はもつのであり、ここでは、対象は、崇高と美との間でゆれうごいているのである。そして、不連続性、つまり、イデア極性、イデア界性、不連続的差異性が発露するとそれは、強度をもつため崇高となるのであり、連続性、つまり現象極性、現象界性、同一性が発露すると、先験的形式に即するために美が生起すると言えよう。では、霊峰富士は、崇高か美か。霊峰富士は、メディア界でゆれうごいているのであり、崇高と美との間(あわい)をゆれうごいていると言えよう。私感では、霊峰富士は、イデア性を感じるのである。おそらく、ピラミダルな形状は、イデア性があるのだと思う。この点に関しては、後で検討しよう。

p.s. このような観点は、ロマン主義(シンボル)と象徴主義サンボリスムアレゴリー)の二元論の問題も解決するだろう。すなわち、前者は、イデア界をメディア界における現象極つまり身体感情、連続性において把捉しようとするのであり、後者はイデア界をメディア界におけるイデア極、「理念」、不連続性において理解するのである。だから、前者は、反動性をもち、全体主義の危険を常にもつのである。しかし、そうとは言え、ロマン主義的感性は、理性と結びつくことで、後者へと移行するものであるから、短絡的に批判するのは誤りである。

p.p.s. ずいぶん、むかし、二月か三月か、金沢から北陸本線で、新潟方面に向かい、途中車窓に出現(正に、現象、フェノメノン)した、白雪に神々しく装われた立山連峰の偉容・「存在」にエクスタティックに感動した。それは、正に崇高さ、あるいはヌミノース的経験である。しかし、それは、メディア界でゆれうごいた経験であろう。不連続/連続性のあわいでゆれうごき、イデア界の強度に衝かれた経験であろう。それは、ロマン主義象徴主義の間の経験とも言えよう。イデア界を予感していたが、そのときは、連続的現象界主義(唯物論ないし近代的物質主義)に立っていたので、イデア界として、理念として洞察把捉することはできなかったのだ。そう、このように見ると、私には、このような自然からのイデア界的経験が多くあった。しかし、それが、崇高な感動であるとは言えても、イデア界、叡智界からの強度によるものとは思いも寄らなかったのである。

3p.s. D.H.ロレンスの唱える「コスモス」とは、イデア界のことであり、空想、幻想、幻視でなく、本源・根源・本体的である。また、芭蕉の俳句の自然観は、コスモス=イデア界的であると思う。荒海や 佐渡に横たふ 天河。閑かさや 岩にしみいる 蝉の声。また、道元禅師の「山深み 峰にも尾にも 声たてて 今日もくれぬと日暮のなく」にも、コスモス=イデア界性が感じられるであろう。http://www.eonet.ne.jp/~jinnouji/peag109.htm
また、八百万の神々、山川草木鳥獣虫魚悉皆成仏、等の自然観もコスモス=イデア界性をもつと言えよう。そう、日本人ないし東アジア人は、縄文(照葉樹林)文化の遺伝子があるのであり、本質的にコスモス=イデア界的である。しかし、今日、資本主義的疎外で、これをほぼ喪失してしまっているが、今やこの縄文的コスモス(本当は、カオスモス)=イデア界の遺伝子が、鬱勃と眠りから覚めたと言えよう。共生主義は、この意味をもつだろう。

4p.s. コスモス=イデア界性とは、ジェンダー的には、母権制である。