自我の反動妄想性

不連続的差異論から自我を考察しよう。


イデア界/メディア界/現象界


これは、

1.根源意識/2.潜在意識(無意識)/3.自我意識

と見ることができるかもしれない。
精神分析は、2.における現象極を無意識としているように思われる。ただし、ラカン現実界は、イデア極に言及しているのかもしれない。しかし、イデア界ではないと思う。そして、ユング心理学であるが、その普遍的無意識、集合的無意識とは、イデア界を連続的に表象していると思われる。そう、一般に神話やオカルトとは、連続論である。また、唯識論は、思うに、イデア界を示唆しているだろうが、しかし、どうも、「こころ」に限定してしまっているように思う。アニミズムシャーマニズムも、イデア界を示唆しているだろうが、やはり、「精神」に偏っている。
 さて、ここで、所期の課題である自我(意識)について考察しよう。これは、連続性/同一性と言語分節から形成されるものと言えよう。メディア界(潜在意識)のもつイデア極性を反動/否定して、現象極から現象界へと飛躍して形成されるように思われる。つまり、自我には、反動否定性がある。メディア界の両界性を否定して、つまり、メディア界を捩るようにして、現象自我を形成する。ここには、メディア界と現象界の乖離があるのではないだろうか。メディア界はつねにゆらいでいる境界である。しかし、このゆらぎを否定するようにして、自我が形成される。精神分析では、これを抑圧ないし排除と呼ぶが、それは、同一性妄想・擬制による、いわば回避、廃棄、無視等である。つまり、メディア界のゆらぎを、同一性妄想・擬制・幻想によって見ないのである。つまり、盲目、めしい、眩みがあるのである。自我とはメディア界を見ない眩みがあるのである。自我の幻想/妄想/擬制に陶酔するのである。これは、父権的自我であり、父権的一神教自我と言っていいだろう。しかし、メディア界のゆらぎは存在しているから、それへの反動として、自我が強化される。これが反動暴力性である。メディア界のゆらぎを見るわけにはいかないのだ。メディア界性に対する衝動的な攻撃性があると言えよう。自我の闇/暴力・権力/狂気である。そして、資本主義的人間はこれを抱えているのである。これが、戦争、自然破壊、暴力を生んでいるのである。自我/成長/資本主義/有利子通貨に換わって、差異/共生/共生経済/無利子(orマイナス利子)通貨がここに出現するのである。自我暴力から差異共生へのパラダイム・シフトである。