超自我

 これは父権的道徳性と等しいものである。では、父権的道徳性は何か考察してみよう。問題は、メディア界的状況からの父権的飛躍である。メディア界の両義・両界的身心性に反発するようにして、それが形成されるだろう。結局、自我/超自我の問題である。ここで、推理をしたい。つまり、仮説、作業仮説である。母権制においては、本来、人間と自然とは調和している。自然の円環に即して、人間が生きている。人類学的に言えば、新石器時代までだろう。しかるに、父権制が制覇する。これは、遊牧民族が原因ということはできない。なぜなら、アジアの遊牧民族シャーマニズムをもち、それは、父権的とは言えないからである。自然信仰・崇拝に近いものである。そこで、私の仮説とは、母権制から追放された人間やグループの反動が父権制ではないかということである。旧約聖書がここでの資料である。ヤハウェは、イスラエル民が、多神教や母権的崇拝に傾くのを嫉視している。つまり、この経済心理学は、多神教や母権的崇拝の富を得られないということではないか。つまり、はぐれた人間、追放された人間、孤立した人間の経済心理学ではないか。多神教的、母権的共同体からはぐれた個のルサンチマンがここにあるのではないかと思う。自然へのルサンチマンがある。すると、自然を超越する神こそよりどころとなるのではないか。反自然の神である。反動の神である。当然、それは善化、独善化しよう。これが、超自我の起源ではないか。反自然の神を念ずるのである。反動の神である。いわば、妄想の神である。フィクション・虚構、擬制の神である。それによって、個が生きる自己暗示を得るのである。だから、ユダヤ教とは、多神教、自然崇拝の裏返しである。コンプレックスである。母権制へのコンプレックスとしての父権制である。嫉みの父権制である。結局、父権的道徳とは、嫉みの道徳であり、内在的な積極的な倫理ではないのである。倫理に値しないものだろう。だから、超自我とは、嫉みを基盤とした偽善、偽装、独善的道徳性と言えよう。
 ということで、超自我ないし超越神は、多神教、母権性の反動・否定であると言える。はぐれた個体の反動である。しかし、ここには、個という契機があるのを見逃してはならないだろう。反動的ではあるが、個の契機がある。これの帰結がキリスト教と言えよう。個の道徳、しかし、ルサンチマン、反動性をひきずっていると言えよう。だから、キリスト教は、多神教に帰還すべきなのである。個において多神教化、母権化すること、これで、反動ではなく、積極的能動化するだろう。これは、D.H.ロレンスが為した偉業である。
 では、不連続的差異論と合わせるとどうなるだろうか。つまり、不連続的差異から連続的同一性への転換へのメカニズムとどう関係するかである。多神教母権制とは、メディア界を表現したものであり、イデア界性と現象界性の両面をもっているだろう。しかるに、父権制である連続的同一性化とは、メディア界を否定しているのである。メディア界の廃棄がある。つまり、メディア界(多神教母権制)への反動であり、そのとき形成される自我、父権的自我とは、上述から、反自然である超自我を拠り所にしたものであると考えられる。つまり、反自然である超越神/超自我に基づく自我、父権的自我の形成である。これは、多神教母権制の完全なネガ、裏返し、対蹠点である。いわば劣等感コンプレックスの自我である。だから、攻撃的である。
 以上の推論から、超自我の意味が判明したのではないだろうか。多神教母権制の反動的ネガであったのである。この否定を否定して、能動化する必要があるだろう。いわば、弁証法である。父権制の否定として、新多神教を生起する。これは、個をふまえた多神教であり、前多神教つまり共同体的多神教ではない。つまり、不連続的多神教である。換言すれば、イデア界に帰還した多神教である。不連続的差異論である。だから、ここに人類の救済があると言えよう。反動、否定、破壊の父権的一神教からのエクソダスである。反動的自我ないし個から、能動肯定的特異性への転換・変換。すなわち、メディア界の能動肯定化であり、イデア界への帰還である。再イデア化である。