プラトンとエロス他

[叡智学] プラトンとエロス:イデアと性


 プラトンの『パイドロス』に白い馬(精神)と黒い馬(欲望)が人間の内部にあると述べられている。そして、後者を前者を肯定して、イデア界/叡智界に達すべきことをプラトンは説いているように見える。精神のエロスを説いているように見える。精神と欲望の二元論ないし二項対立である。はたして、そのような字義通りの見方/解釈でいいのだろうか。プラトン哲学はエロスの哲学である。あるいは、エロス/イデアの哲学である。不連続的差異論から見るなら、メディア界の問題であると言えよう。すなわち、メディア界には、不連続的差異のイデアと連続的同一性の現象とが両義的に関係している。これは、本来的にイデア強度ないしイデアエネルゲイアに因るものであると言える。つまり、これがエロスなのである。白い馬である。しかし、メディア界を否定して、現象界形式中心になるとき、イデア界が否定されているので、もはやイデア/エロスはなく、物質的身体の欲望が発動するのである。それは、イデア/エロス/倫理を欠いた欲望である。暗い欲望である。これが黒い馬である。つまり、これはエロスではないのである。少なくとも、プラトンの説くエロスではない。ならば、この現象界的身体の欲望とは何なのか。それはいわば抑圧された欲望ないしエロスであろう。疎外された欲望/エロスと言っていいだろう。つまり、エロスの倒錯である。エロスの反動である。あるいは、反エロスである。つまり、プラトンが否定したのは、偽りのエロスである。それが黒い馬である。
 さて、ここで、D. H. ロレンスの性論と比較して見よう。ロレンスは、性の絶対美ということを述べている。これは、イデア界的な表現であろう。美としての性である。これは正にプラトンのエロス/イデアと一致するのではないか。プラトンの白い馬とは、ロレンスの性の絶対美と一致するのではないか。メディア界(性)からのイデア界への帰還をロレンスは説いたと考えることができる。ロレンスはニーチェと同様、自身を反プラトニストと考えたが、実は、ニーチェ同様、真のプラトニストだったと言えよう。このようなアイロニーが成立するのは、近代西欧というイデア喪失文化という文脈においてである。

p.s. 思うに、女性の真のエロスとは、プラトン的である。美としてのエロスである。イデア・エロスである。男性は、反エロス的である。権力者、政治家を見よ。


[叡智学] 不連続的差異論と精神分析

 不連続的差異論から精神分析について述べると、その無意識とは、メディア界にほぼ当たるように思われる。性的な欲望としての無意識とは、身体性である。しかし、思うに、フロイトが看過したのは、メディア界のもつイデア界性である。つまり、エロスとは、差異の連続化の引力のことだろう。しかし、差異はイデア界の引力ももっている。つまり、メディア界にはエロスとイデア界的強度が発動しているのである。だから、エロスとイデアとは連関していると言えよう。プラトンイデアとはエロスであった。では、フロイト死の欲動とは何であろうか。それは、反復強迫と関係づけられているが、それは、超自我と関係するものであるが、メディア界ないしイデア界と分離ないし乖離してしまった父権的精神へのイデア界の強度の引力ではないだろうか。イデア界ないし身体を排した父権的精神には真の力、強度を欠いている。つまり、強度を否定しているのである。だから、イデア界の強度の引力に引かれるのである。それは、死である。これを敷衍すれば、近代西欧性とは、帰結的に、死の欲動をもつ。つまり、死へと、破滅へと導かれるだろう。死への衝動である。おそらく、バタイユのエロチシズムと近代西欧性は一致するだろう。蕩尽とは、死の欲動であろう。
 では、超自我と現象界形式との関連性を考察しよう。超自我とは、父権的道徳形式だろう。それは外在的である。あるいは、超越的である。しかし、それは空虚な道徳である。バーチャルな道徳性である。虚としての道徳性である。つまり、超自我とは現象界形式におけるコード/規則であるが、否定、純粋否定としてのコードである。つまり、現象界形式の基礎にあたる否定性、反動暴力性であると考えられる。また、これが超越神、ヤハウェの本体でもあるが。
 ということで、精神分析とは、近代西欧の父権的精神病理を分析していると言えよう。イデア界の無視がある。そして、ラカンは、フロイトが否定したイデア界を現実界として取りもうとしたと言えるのではないだろうか。しかし、ラカン現実界とは、イデア界そのものではなくて、メディア界のことだと考えられる。なぜなら、シニフィアンの亀裂が現実界にあるからだ。メディア界には、原分節としてのシニフィアンの亀裂があるだろうから。

以下の部分を転載
http://blog.melma.com/00122700/20050130152918


[叡智学] イデアと身体と精神分析プラトンとロレンスとフロイト

 イデアないしイデアエネルゲイアが、身体に作用する。しかし、メディア界があるため、その強度はイデア界と現象界との両界性をもつだろう。つまり、不連続性と連続性の両義性である。D. H. ロレンスの身体論ないし無意識論とは、このような強度をもっていると言えよう。これは、スピノザの身体論にもあてはまるだろう。実体/属性/様態、神即自然、永遠の相の下に、等々。両義的だろう。ということで、身体という言い方は、イデアエネルゲイアないし強度とは異なると言えよう。身体とはメディア界的である。だから、ロレンスはイデア界を直感しながらも、身体に生きていたのということができる。ロレンスの説いたキリスト教多神教化、コスモス性とは、身体=メディア界を介してのイデア界の表現であると言えよう。
 さて、ここで、追加して、精神分析について述べると、その無意識とは、メディア界にほぼ当たるように思われる。性的な欲望としての無意識とは、身体性である。しかし、思うに、フロイトが看過したのは、メディア界のもつイデア界性である。つまり、エロスとは、差異の連続化の引力のことだろう。しかし、差異はイデア界の引力ももっている。つまり、メディア界にはエロスとイデア界的強度が発動しているのである。だから、エロスとイデアとは連関していると言えよう。プラトンイデアとはエロスであった。では、フロイト死の欲動とは何であろうか。それは、反復強迫と関係づけられているが、それは、超自我と関係するものであるが、メディア界ないしイデア界と分離ないし乖離してしまった父権的精神へのイデア界の強度の引力ではないだろうか。イデア界ないし身体を排した父権的精神には真の力、強度を欠いている。つまり、強度を否定しているのである。だから、イデア界の強度の引力に引かれるのである。それは、死である。これを敷衍すれば、近代西欧性とは、帰結的に、死の欲動をもつ。つまり、死へと、破滅へと導かれるだろう。死への衝動である。おそらく、バタイユのエロチシズムと近代西欧性は一致するだろう。蕩尽とは、死の欲動であろう。
 では、超自我と現象界形式との関連性を考察しよう。超自我とは、父権的道徳形式だろう。それは外在的である。あるいは、超越的である。しかし、それは空虚な道徳である。バーチャルな道徳性である。虚としての道徳性である。つまり、超自我とは現象界形式におけるコード/規則であるが、否定、純粋否定としてのコードである。つまり、現象界形式の基礎にあたる否定性、反動暴力性であると考えられる。また、これが超越神、ヤハウェの本体でもあるが。
 ということで、精神分析とは、近代西欧の父権的精神病理を分析していると言えよう。イデア界の無視がある。そして、ラカンは、フロイトが否定したイデア界を現実界として取りもうとしたと言えるのではないだろうか。しかし、ラカン現実界とは、イデア界そのものではなくて、メディア界のことだと考えられる。なぜなら、シニフィアンの亀裂が現実界にあるからだ。メディア界には、原分節としてのシニフィアンの亀裂があるだろうから。