ポスト近代西欧と共生主義:メディア界的理性・調和・均衡

超越論的形式と言語分節:メディア界的両界性と近代西欧的現象界形式


 不連続的差異論におけるメディア界において、不連続的差異が連続的概念や同一性に転換されると考えられる。そして、言語分節に先立って、原分節性が生じていると考えることができる。カントの物自体とはおそらく原分節的事態をさしているのだろうか。それとも、不連続的差異を指しているのだろうか。思うに、実践理性は、不連続的差異(イデア、叡智)を指していると考えてもいいだろう。つまり、物自体とは、主に外界、物質界に関わることだと考えられよう。だから、例えば、「樹」であるが、これは、物自体としては、外界において原分節性をもった対象であると考えることができるのではないだろうか。しかしながら、外界、客体が原分節をもつというのは、主体側の感覚知覚能力に原分節性があることにも因るだろう。つまり、物自体の原分節と主体の原分節が結合して、原感覚知覚が形成されると言えよう。結局、主体の原分節性によって、物自体の原分節が「分節」化されると言えるだろう。つまり、客体の主体化である。そして、この主体の原分節が言語分節化されることで、さらに客体が分節化されると言えよう。つまり、客体は、主体的原分節プラス言語分節によって、知覚されると言えよう。
 さて、この考え方とカントの超越論的形式とはどのように関係するだろうか。これは、検討するまでもなく、主体的原分節/言語分節が超越論的形式ということになろう。そして、この形式(構造主義の構造と言ってもいいだろう)は、自我認識の形式でもあるし、また、欲望の形式でもある。そして、連続的同一性の形式でもある。そして、貨幣的交換価値形式でもある(マルクスの価値形態論とは、この形式を述べているのだろう)。
 しかし、この形式は、不連続的差異を否定したものであり、主体において分裂が生じているのである。つまり、主体とは、特異な個であり、連続的同一性ではないからである。そして、不連続的差異としての特異的個体性とは、メディア界的存在と言えるだろう。完全にイデア界に存在するならば、いわば死者、未生者であろう。生者は、メディア界的存在であり、そして、現象界に生きているのである。だから、特異的個体性としの主体は、メディア界的両義・両界性をもつのである。一方はイデア界であり、他方は現象界である。そして、自我としては、連続的同一性の形式をもつということである。結局、主体とは、特異的個体性と自我的連続的同一性の分裂による亀裂・断層があるということができよう。前者は普遍性を求めるのであり、後者は一般性を求めるのである。なぜならば、前者はメディア界を通して、イデア界に通じているからであり、この叡智界は、正に普遍性の世界である。だから、主体はキルケゴールがいみじくも説いたように、普遍性と個別性とのパラドックスをもつ存在なのである。メディア界的両義・両界的存在である。イデア界の普遍的強度と現象界の連続的同一性形式のパラドクシカルな、アンチノミー的存在なのである。
 しかし、近代西欧において、デカルト哲学やプロテスタンティズムや近代科学革命等を通して、主体に根本的変化が生じたのである。すなわち、イデア界が否定されて、現象界形式中心の「文化」が生じたのである。そして、資本主義の進展と連続して、世界全体が、この近代西欧文化の支配を受けるようになったのである。これは、主体の陰化、闇化とでも言うべき事態である。つまり、現象界の形式がイデア界の普遍性を否定ないし廃棄したのであり、主体の反動化が起こったのである。これは、反動暴力であり、狂気化である。そして、その帰結がアメリカ帝国主義的グローバリゼーションである。 
 とまれ、この近代西欧化とは、初期マルクスの思想から言えば、疎外である。現象界形式によって、イデア界的普遍強度が疎外されて、主体は連続的同一性へと還元されたのである。これが、「プロレタリアート」である。(この意味では、現代の労働者は、「プロレタリアート」にほかならない。)貨幣という連続的同一性の形式に還元されてしまったのである。そして、初期マルクスは、イデア界的普遍強度を取り戻し、実現する運動、活動、生活を「共産主義」と呼んだのである。だから、いわゆるマルクス主義とは全く別の思想である。そして、この初期マルクスの「共産主義」とは、現代では、共生主義と呼べるだろう。そして、共生主義経済とは、ODA ウォッチャーズ氏が見事に洞察したようにメディア界的バランスをもつ経済、つまり、イデア界的普遍強度と現象界的連続同一性形式とのバランスをもつ経済となるだろう。
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このためには、後者の「成長」指向の有利子経済から前者の差異共生性を目指す無利子ないしマイナス利子経済へと転換する必要あり、そのために国際法に基づく世界共生通貨ガイアが構想されるのである。このメディア界的共生主義経済によって、初期マルクスの「共産主義」が実現するだろう。しかし、もはや「共産主義」とは呼ばず、共生主義ないし差異共生主義と言うべきだろう。そして、この思想/実践は、ポスト近代西欧主義、ポスト資本主義であり、疎外された人間を回復するものであるから、人類・世界・自然・宇宙ルネッサンスである。そして、不連続的差異論がこのニュールネッサンスの理論的根拠を与える。経済は成長型環境破壊主義から、共生型環境連環主義へと移行する。差異共生共立体としてのコミュニティーのネットワークが世界を取り巻く。共生生産・共生消費・共生創造の差異共生経済が発動する。差異共生の合理性、調和性、均衡性が主導することとなる。