マルクス的超越論的経済形式と差異共存通貨経済

ナチズムを、ある観念体系として批判するのはたやすい。しかし、それが生まれる経済的状況があるのである。第一次世界大戦後のドイツに対する連合国側の理不尽な賠償要求があり、それで、ドイツ経済は完全に立ちゆかなくなったのだ。そのような経済的状況を無視して、ナチズムの思想云々を言うのは、鈍いだろう。とまれ、経済的状況とは、いわば超越論的経済力学をもち、それに人間は無意識のうちに動かされるのである。つまり、超越論的経済形式があり、それは、人間・社会の思想・観念を左右するのと考えられる。この意味では、マルクス唯物論イデオロギー批判は的確である。しかし、これを絶対とするのは間違いである。史的唯物論のように。そうではなくて、思想・観念と超越論的経済強制を相関づけて、そして、主体の思想・観念を批判的に強化する必要があるだろう。それは、差異的批判主義であろう。とまれ、資本主義経済は、当然その超越論的強制力をもつのであり、それが、国家主義ナショナリズム全体主義を醸成するだろう。これに対して、差異、不連続的差異による主体・強度的批判は常に必要である。資本主義的超越論的経済強制=反民主主義性に対して、差異共立コモニズムの立場を反復しないといけないだろう。
cf. http://blog.readymade.jp/tiao/archives/000903.html

p.s. 超越論的経済形式強制とは、連続論的である。共同体/集団主義的である。だから、ここに全体主義ファシズムの根があると言えよう。結局、個、差異、不連続的差異、特異個としての理性が必要なのである。差異理性、特異個理性である。差異理性が差異共立社会を形成していくものだろう。差異理性経済理論が必要である。

p.p.s. 超越論的経済形式と人間の心身は結びついている。だから、この点で、経済的唯物論は正しいのである。しかし、絶対ではないが。とまれ、この超越論的経済/心身形式の新しい理論が必要である。資本主義は、今日、絶望的である。差異共立・差異共済・差異共存のための経済的保証が必要である。これがあれば、経済/心身強度がはたらくと思われる。つまり、差異共存的資本連環経済が必要と言えよう。差異共存資本制度である。差異共存資本によって、未来の生活が保障されるのであり、そのため、経済/心身は活性化・賦活化されるだろう。差異共存資本を法的に義務づけたらどうだろうか。差異共存通貨を発行していもいいのではないだろうか。差異共存通貨は、無利子ないしマイナス利子であり、通常の通貨を差異共存通貨に交換した場合は、たとえば、税金の控除があるというようにしたらどうだろうか。つまり、1国2法定通貨制である。ここでこそ、ベルナルド・リエター他の補完通貨制が意味をなすのではないだろか。
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