近代合理主義的自我とは:差異共立生成経済へ

[叡智学] 近代合理主義的自我とは:差異共立生成経済へ

近代合理主義的自我について

どこか欺瞞を感じる。偽りがある。自己感情に誠実に向いていない。そう、自己感情を偽っているところがある。というか、利己主義的な感情・欲望から、他者を見ているのである。冷徹な、残忍な、傲慢な知性で他者を見ているのである。しかし、それを正当化しようとする口調があるのである。それが、偽善的な、欺瞞的な感じを与えるのではないだろうか。そう超自我のいやらしさというのか。つまり、自己欲望が善となり、それを否定するものが悪となる、二項対立的価値観、偽善的価値観があるのだろう。そうこれが、自我/超自我のあり方だろう。独善的である。でも、この言語自我の偽善性はどこからくるのだろうか。つまり、受動感情を悪と見て、それを超克する言語自我を善とするメカニズムはどこからくるのか。そう、なぜ、自我を道徳化するのか。それは、人間の根源的身体の受動からくるのではないか。母への依存がある。それに対する反動として、自我があるのだろう。つまり、劣等感から優越感への転換があるのだろう。しかし、反動である。反動的な優越感である。裏返しである。一種の乗り越えではある。反動的自我である。ここで、知的快楽を得る。つまり、身体的感情・欲望から、知的快楽へと転換する。つまり、すり替えがあるのだ。トリックがあるのだ。結局、基盤の身体的感情・欲望は残っているのだが、それをいわば抑圧して、自我知的快楽へと転換している。だから、自我には不誠実さ、偽善さ、欺瞞が伴うのだ。その自己の本性に向き合わない欺瞞があるのだ。つまり、欲求不満としての自我であり、だから、権力的になると言えよう。これが、権力者の自我の構造だろう。自分の基盤の欲求不満を充たさせないところから、権力衝動が発するのである。そして、資本主義とは、この自我のメカニズムを基盤にしているのだろう。つねに充たされない欲動に駆られているのである。

p.s. 身体的感情・欲望を肯定的に能動化していく叡智がスピノザ哲学『エチカ』にある。つまり、ポスト自我の哲学である。特異的個の哲学である。この特異性の哲学、身体/精神の哲学が、これからの教育には必要だろう。中教審の「知識基盤社会」とはちゃんちゃらおかしい。アナクロニズムである。ポスト疎外の哲学が必要である。そう、それを、ポスト構造主義が目指したのであるが、結局、袋小路に入ってしまった。ポスト疎外の哲学とは、内在的資本主義批判哲学でなくてはならない。そして、それは不連続的差異論と結晶したと言えよう。そして、さらに実践的な前進をしないといけない。成長・発展・拡大に換わるオールタナティヴな思想が必要である。非成長・非発展・非拡大の思想。差異平等思想だろう。資本主義は、差異的自我思想である。ポスト資本主義は、差異的ポスト自我思想であろう。差異平等社会である。差異平等経済である。それには、経済価値共有化が必要である。そう、共有主義となるのではないだろうか。共産主義ではなくて、共有主義、共通主義、コモニズムではないか。資本共通主義、共通資本主義、共有資本主義、資本共有主義。共有制である。不連続的差異論は、資本主義の連続性を批判解体して、差異共立性に還元する。そして、それは、差異共立生産という共有生産であることがわかる。だから、通貨も共有通貨である。あるいは、差異共立通貨である。これは、無利子かマイナス利子にするのが妥当だと思う。差異共立生成経済であろう。個、主体は不連続的差異としての特異的強度によって差異共立生成を行うといえよう。差異のイデア強度によって差異共立生成生産を行うと言えるのではないだろうか。


[経済] 消滅貨幣を法定通貨にしたとき:資本主義と社会主義の間

直感では、これは妥協かもしれないが、必然の妥協ではないだろうか。というか、必然の調和かもしれない。というのは、超越論的現象形式(カント)が人間には埋め込まれている(内在している)。これを無視することはできない。しかし、根源には、不連続的差異があるのである。貨幣を無くすことは理想であるが、しかし、それは、イデア界ならば、できるだろう。現象界では不可能ではないか。だから、差異と同一性との調和として、消滅貨幣・減価通貨を法定通貨とすることが考えられると思うのである。一方で、差異価値があり、他方で、減価する交換価値があり、イデア界と現象界を調和させられるのではないだろうか。この点は、ゲゼルの主著を読み検討する必要がある。

http://www3.plala.or.jp/mig/gesell/nwo-jp.html

p.s. ゲゼルは消滅貨幣を政府において発行することを考えていたのであり、地域通貨補完通貨としてではないだろう。ベルナルト・リエターや森野栄一氏は、似非ゲゼリアンではないだろうか。


[教育] 教養教育とは何か:崖っぷち弱小大学物語

専門教育に対して、普遍教育となるべきものではないか。かつて、一般教養と言われていたが、そうではないだろう。また、基礎教養とも言われるが、明確に普遍教育と言うべきだと思う。大学とは、universityで、universal普遍的ということだろう。(もっとも、一元論的なのを排さないといけないが)多元的普遍教育が今日必要とされているだろう。

cf. 『崖っぷち弱小大学物語』 杉山幸丸著 中公新書ラクレ

p.s. 問題は、資本主義的疎外にあるだろう。現代人、日本人の普遍的心身生活が疎外されて、卑小な拝金主義の私的生活に限定されているのである。だから、資本主義批判普遍教育が必要である。

p.p.s. 中教審の「我が国の高等教育の将来像」の答申が1/24に出たとのことだが、まだ内容はウェブ上では公開されていないようなので、中間報告をとりあえず見ておこう。「知識基盤社会」を目指すということらしいが、これでは間違っていると思う。近代主義の延長である。「理性」教育がベースに必要である。「理性」基盤の上に知性・技術教育や表現教育等が必要なのである。http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/04122001.htm


[経済] いったいどこから成長神話が生まれたのか

よくイギリスの小説家ダニエル・デフォーロビンソン・クルーソーが、近代的経済人の原点として提示されるだろう。独力で、切り開くタイプである。確かに、単独者の冒険がある。しかし、これは特殊な状況の話である。でも、これはやはり砂漠的状況に通ずるのではないだろうか。受動ではなくて、能動である。この能動が成果をもたらすのである。すると、大雑把ではあるが、やはり、遊牧民族の能動性が資本主義の原点ではないだろうか。しかし、増殖を欲するのは、特に遊牧民だからということではないだろう。モンゴル民族は、遊牧民であるが、余剰がない。増殖の発想は聖書にある。産めよ増やせよとある。思うに遊牧民でも相当貧しい部類が増殖の発想を思いついたのではないだろうか。今のところ、よくわからない。とまれ、少なくとも、これは、父権的自我と関係すると思う。旧約・新約は、父権的自我を説いているのである。そして、これはまた反動である。というのは、本来は、イデア界的な充足があるからである。そして、いったん、自我が生じると、自我権力が生じ、その反動的となった自我が、イデア界をとりもどそうとして、反動的な成長・拡大・発展神話をもつのではないか。この点からも、今やポスト・キリスト教の時代である。イデア界の新時代である。

p.s. これは、基本的には歴史観にあるのではないか。母権文化は、円環的な時間をもつのに対して、父権文化は、歴史的時間をもつ。つまり、直線的時間である。初めがあり、終わりがある。終末論的である。ゾロアスター教ユダヤ教キリスト教、そしてイスラーム教。ヘーゲル哲学はこのようなタイプだ。今は余裕がないので、後ほど、考察を続けよう。超越神、一神教の問題、自然観の問題、ジェンダー論的問題等。