マルクスだったらこう考える:不連続的減価経済

[叡智学] 『マルクスだったらこう考える』的場昭弘著 光文社新書

 2/3弱読んだ。一部、マルクスのもつ進歩主義の誤謬(つまり、帝国的グローバリゼーションのためには、犠牲はしかたないというような考え)があると思うが、全体としては、斬新な内容である。マルクス主義近代主義的限界を指摘している。
 ところで、思うに、マルクスの疎外という概念は、超越論的だと思う。これは直観であるが、検討しないといけない。なぜ、超越論的、先験的なのか。カントの超越論性は、時空間的なそれであった(ここでは、超越論的仮象=理念は無視できよう。)。時空間的とは、現象的、物質的ということである。そして、資本主義は、一般的抽象的形式価値(抽象・一般的交換価値)に関わるのであり、この形式価値が、カントの超越論性と一致すると思う。つまり、カントの超越論的時空間形式とは、現象物質形式であり、物質的身体/肉体形式である。これと、資本主義の一般抽象的交換価値=貨幣価値とは、一致するだろう。つまり、簡単に言えば、一キロの塩=百円ということだろう。つまり、一般抽象数量等価形式である。この抽象一般形式とカントの超越論的一般形式と一致すると言えるだろう。つまり、資本主義は、超越論的形式を基礎・原理とする経済であると言えよう。だから、資本主義は、人間を疎外するのである。現象の先験的形式に基づいているのである。だから、一般に、有無を言わさない形式である。生殺与奪的形式である。
 以上から、資本主義=超越論的形式=貨幣形式が帰結する。ここには、差異、不連続的差異、特異性が喪失している。これは、差異を破壊する現象中心主義である。そして、ここにおいて、人間は連続的同一性の従者・奴隷である。つまり、現象的先験的形式が支配しているのである。結局、差異、不連続的差異をとりもどさないといけない。それが、初期マルクスの考えた「共産主義」である。だから、不連続的差異論とは、「共産主義」である。しかし、国有化主義ではない。それは、不連続的差異的共立共生主義である。差異共立主義とは、結局、超越論的形式を越えた価値主義であり、超越論的超越論的形式だろう。実践的には、資本主義を差異共立主義に変換するシステムが必要である。資本/差異共立主義である。簡単に言えば、資本→差異変換システムである。超越論的資本主義から、差異共立的資本主義である。形式資本から差異資本へ。形式無機的資本主義から、差異共立資本主義へ。連続差異的資本主義から不連続差異的資本主義へ。連続的通貨から不連続的通貨へ。思うに、ゲゼルの減価通貨が意味があるのかもしれない。単に地域通貨ではない。マイナス利子をつけるのである。銀行に一億円があっても、それは、減価するのである。銀行は貯蓄があればあるほど、マイナスになるだろう。つまり、不連続的差異価値を評価するために、連続的差異価値を減価するのである。つまり、連続差異価値というバーチャルな価値を排するための実質的な不連続的差異価値のための通貨である。超越論的連続差異形式から超越論的不連続的差異強度への転換である。

p.s. 資本主義は、「成長」、「発展」、「拡大」を前提としている。だから、利子が認められるのである。しかし、これは、いわば排他的なものであり、差別的であり、破壊的である。この資本主義神話を批判したいと思う。

p.p.s. 超越論的形式=一般抽象的価値・交換価値=二項対立的二元論ではないか。そして、これは、キリスト教的価値論とつながるだろう。つまり、イエス・キリストはロゴスとされた。そして、とりわけ、西欧近代においては、言葉とされた。イエスという現象=ロゴス=言葉とされたのである。(これは、ヘーゲル哲学である。ヘーゲル哲学とは、キリスト教哲学であろう。)そして、父にあたるのが、自我欲望だろう。だから、父=自我欲望(エゴイズム)、子=言葉=交換価値・貨幣、聖霊=信心・信用だろう。また、これが、アメリWASP(WHITE ANGLO-SAXON PROTESTANT)のキリスト教だろう。また、デカルト主義であり、当然資本主義形式である。とまれ、どうして、超越論的形式=交換価値が二項対立となるのか。それは、上述したように、現象形式だからである。現象は、二項対立的である。簡単に言えば、100ワットは、50ワットよりも、大であり、前者が後者より優越するのである。あるいは、試験の点数が90点の方が、70点よりも優越するのである。だから、超越論的形式=交換価値=二項対立と言える。結局、中沢新一氏がいみじくも述べたように、キリスト教が資本主義の原理である。閉塞したキリスト教三位一体を打破しないといけない。ここには、第四者にあたる、物自体、他者、差異(不連続的差異)がない。これは、母だろう。身体だろう。スピノザニーチェ/ロレンスの身体である。つまり、イデア/コスモス(カオスモス)である。やはり、イエス・キリストは、第四者を閉ざしてしまったのである。(グノーシスは、第四者をもっていただろう。)明確に言おう。キリスト教は、イデアを閉め出してしまったのである。つまり、現象界に閉塞するのである。グノーシスは、エクソダス(脱出)として、ソフィアを契機とする叡智界を考えたが、それは正しいだろう。しかしキリスト教は、叡智界・イデア界を閉め出してしまったのである。そして、それは、資本主義の原理となったのである。だから、「共産主義」のためには、叡智界・イデア界論が必要なのである。結局、叡智・イデア共産主義であろう。観念論的共産主義である。そして、正確には、不連続的差異論的共産主義である。だから、科学的社会主義よりは、ユートピア社会主義の方が、この意味で、より正鵠に近かったのである。


[経済] 偽造カード問題

http://www.mainichi-msn.co.jp/keizai/kinyu/news/20050126k0000m020052000c.html
http://news.google.co.jp/nwshp?hl=ja&gl=jp&ncl=http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20050125i313.htm


[国際] 実は悪くなかった「悪の枢軸

http://tanakanews.com/f0125axis.htm


[国際][社会] クルド人親子強制送還

http://www.asaikuniomi.com/
http://0000000000.net/p-navi/info/column/200501241305.htm


[経済] ライブドア、西京銀とネット専業銀行設立へ年内めどに業務開始

http://www.business-i.jp/news/kinyu-page/news/art-20050124215207-VIRIBNFPPC.nwc
http://news.google.co.jp/nwshp?hl=ja&gl=jp&ncl=http://www.business-i.jp/news/kinyu-page/news/art-20050124215207-VIRIBNFPPC.nwc


[叡智学] 人類ルネッサンス:コスモグローカル・コミュニティズム

D.H.ロレンスの畢生の予言的大名著『黙示録論』の最後の言葉から。
「吾々の欲することは、虚偽の非有機的な結合を、殊に金銭と相つらなる結合を打毀し、コスモス、日輪、大地との結合、人類、国民、家族との生きた有機的な結合をふたたびこの世に打樹てることにある。まず日輪と共に始めよ、そうすればほかのことは徐々に、徐々に継起してくるであろう。」ちくま学芸文庫 p.215

ここで、最後の文に注目したい。日輪と共にある生活の新生であり、いわば、宇宙・コスモス的生活の復活である。早起きは三文の得(徳ではないだろうか?)である。ここに含まれるロレンスの人類への切望・メッセージは、功利的なものというよりは、強度的である。宇宙・コスモスの強度と一体の人類の生活を説いているのである。この強度とは、不連続的差異論から言えば、イデア界の強度である。あるいは、カオスモスの強度である。また、ここには、新たなコスモス的な秩序への祈願・熱願がある。「有機的」という言葉は、そのままとると、全体主義的になるが、そうではなくて、不連続的差異的共感共生命的、差異宇宙共生感覚的とでも見るべきである。そう、イデア界(宇宙・コスモス・カオスモス)と人類、大地・地球は一体である。この差異共立宇宙身体精神性を復活させることをロレンスは切願予言しているのである。このような宇宙的なものでなければ、新社会主義は生命力がないだろう。新宇宙的グローカル・コミュニティズムneocosmic glocal communitismあるいはコスモーカル・コミュニティズムcosmocal communitism (コスモコミュニティズム/コスモコミュニティズム)である。

p.s. あるいは、コスモグローカル・コミュニティズムcosmoglocal communitism

p.p.s. 宇宙的社会主義でもある。cosmosocialism
ユートピア社会主義者と見られたフーリエは情念引力を説き、宇宙的であった。

3p.s. ある意味で、新中世的ではあるが、しかし、ここには、中世のヒエラルキーはないのである。内在強度的水平主義があるのである。

cf. 「自然、すなわち、それ自体が人間の肉体でない限りでの自然は、人間の非有機的身体である。人間が自然によって生きるということは、すなわち、自然は、人間が死なないためには、それとの不断の〔交流〕過程のなかにとどまらねばならないところの、人間の身体であるということなのである。人間の肉体的および精神的生活が自然と連関しているということは、自然が自然自身と連関していること以外のなにごとをも意味しない。というのは、人間は自然の一部だからである。
 疎外された労働は人間から、(1)自然を疎外し、(2)自己自身を、人間に特有の活動的機能を、人間の生命活動を、疎外することによって、それは人間から類を疎外する。すなわち、それは人間にとって類生活を、個人生活の手段とならせるのである。・・・
しかし〔真実のところをいえば〕、生産的生活は類生活である。それは生活をつくりだす生活である。生命活動の様式のうちには、一種族〔species〕の全性格が、その類的性格が横たわっている。そして自由な意識活動が、人間の類的生活である。ところがこの生活そのものが、もっぱら生活手段としてだけ現れるのである。」マルクス『経済学・哲学草稿』岩波文庫 p.94~p.95

ここで、若きマルクスが述べている(資本主義的労働で疎外される)自然、自己自身、類的(普遍的)生活は、上記のロレンスの説く日輪・コスモス的生活と相通じるだろう。ここで、若きマルクスと晩年のロレンスが直結すると言えるだろう。ならば、合体して、コスモス的「コミュニズム」が考えられる。コスモ・コミュニズムないしコズミック・コミュニズムである。

p.s. ここに、スピノザの内在的自然主義を入れることもできよう。そして、それを不連続的差異化すれば、完璧である。

p.p.s. プルードンの自主管理型多元的協同社会であるが、これも、スピノザ/ロレンス的にコスモス化する必要があるだろう。コスモス的連合体となろう。コスモス的自主管理多元連合体である。