不連続的差異論とニューソーシャリズム1

[叡智学][経済] 不連続的差異論とニューソーシャリズム:試論1

 科学的社会主義が失敗したのは、社会主義は根本において、主体と客体の精細な、また複雑な連関性、相補性、総体性に関わるもので、単に知性中心の科学的なものではないからである。あえて言えば、哲学、芸術、宗教の精神性・理性が必要である。つまり、社会主義の理論的基礎には、理性、知性、批判性、倫理、欲望、共感性、イマジネーション等を包摂する総合的理論が必要なのである。しかるに、これまでの理論では、それらを包括できず、分裂していたのである。たとえば、唯物論的批判主義は確かに鋭敏ではあるが、共感性を欠いて、暴力化する。内部崩壊するのは、ここには、反動暴力性が内在しているからである。他方、観念論的精神性は、深くはあるが、現実性に対して鈍重である。しかるに、不連続的差異論は、不連続的差異イデアを立てることで、両者を統一する理論となったのである。不連続的差異論において、理性、知性、批判性、共感性等が包摂されるので、社会主義の基礎となりうるのである。これは哲学的側面である。
 次に経済的側面であるが、不連続的差異論によって、等価交換が成立しなくなるのである。つまり、Aさんが生産した生産物Pa(たとえば、米)とBさんが生産した生産物Pb(たとえば、ソフトウェア)とは、不連続的差異の関係にあり、等価交換が成立しないのである。だから、取引ではなくて、AさんとBさんの、たとえば、交流となるだろう。相互に与えるのであろう。相互贈与である。しかし、不連続的であるから、贈与の義務の強制はない。自由互恵化である。そう、生産物があれ、あるいは、なくとも、Aさんという差異価値が評価され、またBさんの差異価値が評価されるだろう。この差異価値のための贈与価値が計算されるのではないだろうか。この差異価値の被贈与価値計算によって、AさんとBさんの社会が成り立つだろう。これは、複数、多数でも同様である。また分業社会でも同様であろう。分業により、差異価値の被贈与価値が高まるだろう。Aさんの差異価値に対して、分業社会は、多様な贈与価値評価をするのである。つまり、社会差異相補互恵化があるのである。これは、また、単に人間だけでなく、自然環境にも適用されるだろう。自然の差異価値の被贈与価値が評価されるのである。勿論、自然は、本来贈与的であるが、今日では、汚染や破壊的開発等により、自然も疲弊しているのであるから、自然への贈与も必要である。ということで、不連続的差異論から、共与互恵経済という社会主義が成立するであろう。これは、また、固定的な自然の超克ではないだろうか、というのは、差異という潜勢力を発展させるのであるから。つまり、人間の内在的可能性を進展させ、発展させるのである。差異による無限の生成変化が生起するようになろう。「私」は、無限に差異変化をするであろう、社会・自然とともに。

p.s. 科学的社会主義は、エンゲルスの発案であろう。マルクスは、本来、差異的社会主義を考えていたのではないだろうか。

p.p.s. あとで、さらに検討を進める。