不連続的差異論とニューソーシャリズム2

不連続的差異論とニューソーシャリズム:試論2

 社会主義の哲学的基礎について、もう少し検討しておこう。先に、社会主義とは、主体と客体との精細かつ複雑な関係の理論であることを述べたが、これを説明する必要があるだろう。社会主義とは、生産手段を社会化する経済であり、決して国有化する経済ではない。(レーニンの誤りは、マルクスエンゲルスを極めて特殊化したところにあるだろう。レーニンは、確かに、物事を簡潔に捉える点で天才的であるが、あまりに単純素朴であったと思う。)この生産手段の社会化のためには、主体の私心の無さが必須なのである。しかるに、近代的合理主義をもつ近代的自我がそれに関わるのは致命的である。それは、エゴイズムであり、他者といがみあったり、他者を嫉んだりして、他者に攻撃・暴力的であるからである。だから、主体の有り様が不可欠の問題である。社会主義にふさわしい主体が必要なのである。それは、私見では、スピノザ的叡智が必要である。つまり、反動的な自我ではなく、肯定・能動的な個の精神性である。これは、心身並行論からして、身体と連関するのである。このいわば、他者共感的精神(身心)がなければ、個は他者と暴力的に闘争する。思うに、このような肯定・能動的精神(身心)が欠落していたためにあらゆる社会主義共産主義は反動化したと言っても過言ではないだろう。主体性を甘く見ていたのである。単に、科学的な客体性のみを見ていたために、科学的社会主義は、反動化したのである。主体の精神的契機が、客体の契機とともに、必須なのである。
 社会主義にふさわしい主体的契機とは何であろうか。それは、他者と共感する、他者の差異性を肯定する主体性でなくてはならないだろう。近代的合理主義は対蹠的である。この共感性は、優れた芸術に満ちているものである。あるいは、教条性を排した宗教にあるものである。いわゆる唯物論が廃棄した精神性が必要なのである。ある意味で、観念論性と言えるだろう。この共感性と理性とをもって、批判理性が生じるだろう。これが社会主義の主体的契機と言えるだろう。
 以上が主体的契機、主体的必要性であるが、それと同時に、当然、客体認識が必要である。これは、マルクスが述べていたように、過剰な生産力の問題である。とりわけ、物質的生産力である。また、あまりに偏った金融資本力(権力)である。私見では、プルードンの認識が的確であるようだ。剰余価値とは、社会的生産力という社会的集合力によるのであり、それは、社会全体のものであり(社会的所有)、私的所有(法人所有を含めて)すべきものではないのである。それが客観的事実である。だから、資本主義は、理不尽なのである。客観的ないし客体的事実に反した富の配分を行っているのである。つまり、科学的真理に反した富、剰余価値の配分を行っているのである。つまり、反科学、不合理主義としての資本主義である。だから、資本主義を客観・客体的に超克する絶対的必要があると言える。そして、この社会的生産力、剰余価値の問題を、不連続的差異論から見ると、複数、多数の差異の共立的連結であり、これを、連続同一性の交換価値化することは、差異を無視する誤謬である。また、不連続的差異論から資本主義の貨幣経済を見ると、等価交換とは、差異を無化した、連続同一性の経済である。つまり、連続同一性の暴力があるのである。ということで、社会的生産力や資本主義的貨幣経済の問題も、不連続的差異論から、批判解明することができるのである。
 以上、主体かつ客体的契機が提示されたが、それは、別々に存するのではなくて、上記のような主体の精神的契機とは、内在的社会主義的契機ないし強度であり、これが、客体的認識と結合・統合して、主体かつ客体、即自且つ対自的社会主義的理論となるのである。不連続的差異論による主体且つ客体、即自且つ対自的社会主義理論が成立するのである。新しい理論である不連続的差異論が、現代の社会主義のための理論的根拠を提示するのである。不連続的差異論的社会主義(簡略して、差異社会主義)、ニューソーシャリズムの誕生である。