不連続的差異論と初期マルクス

 マルクスに関しては、再読しないといけないが、ここで、漠然とではあるが、予見を述べたい。ドイツ観念論という理論構築があり、また、フォイエルバッハによる人間学唯物論が観念論に風穴を開けたと言えよう。フォイエルバッハの理論が初期マルクスに関係する。では、フォイエルバッハの理論とは、何か。それは、ヘーゲル哲学に向けられていた。宗教/観念批判であり、キリスト教人間学化したのである。つまり、外在的な価値を内在的に還元したと言えよう。しかし、この内在化されたキリスト教は、愛の内在論であり、肉体化された愛の唯物論であった。しかし、これは、抽象的な理論であり、具体的な歴史性を欠いていたのであり、思うに、初期マルクスは、フォイエルバッハ哲学の抽象性を批判したのである。つまり、愛の唯物論をいわば、「世界内存在」化したと言えよう。具体的な、特定な、つまり、特異的な状況に置いたといえるのではないだろうか。つまり、フォイエルバッハ哲学の内在的人間学唯物論を、差異化したと言えよう。つまり、差異・特異的歴史・政治・経済的状況に存在する内在的人間学唯物論を初期マルクスは説いたのではないか。それは、つまり、差異的な内在人間学唯物論となるだろう。そして、この差異的な「本質」を具体的多様に実現することが、「コミュニズム」であったのだろう。そして、それは、自由な諸個人によるアソシアシオンが実現するものであった。唯物論ではあるが、内在性があるために、観念論性をもつのである。いわば、プルードンが説いたイデオレアリスム(観念的実在論)に近い哲学が初期マルクスにあったと言えるのではないだろうか。
 では、マルクスの差異性とは、連続的か、それとも不連続的であったのか。マルクスの哲学ないし思想の特徴として、いわば物自体と意識とのズレという考えがあるだろう。これは、差異である。そう、デリダ的に差延と言ってもいいだろう。そして、物自体という差異は、不連続的差異論から見ると、イデア界の差異であり、不連続的差異である。ということで、初期マルクスの哲学は、不連続的差異論的であったと言えるだろう。ならば、その「コミュニズム」も当然、不連続的差異的「コミュニズム」となるはずである。しかるに、エンゲルスの科学主義やヘーゲル弁証法の影響で、「マルクス主義」が生まれていったと言えよう。そして、『資本論』においては、連続論的資本主義経済力学分析となったと言えよう。労働、商品、貨幣、資本の連続性における資本主義分析となっているのである。柄谷行人氏が、価値形態論の解明で、商品と貨幣との差異を説いているが、それは、『資本論』に残存しているマルクスの差異性であろう。柄谷氏は自身の初期の『マルクスその可能性の中心』(1978年)で、このことを説いていたのである。しかし、マルクスは『資本論』において差異を連続化して、資本主義を分析しているのである。初期マルクスがもっていた不連続的差異性が失われていると言えよう。柄谷氏は上記の著書で、マルクスの学位論文「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学との差異」に触れて、自然の差異性であるクリナーメンに言及していたと思う。不連続的差異論から見れば、自然の差異であるクリナーメンとは、不連続的差異である。ということで、初期マルクスの哲学・思想とは、不連続的差異論的であったということが言えるのであり、その「コミュニズム」とは、いわゆる連続概念的なマルクス主義的ではなくて、不連続的差異的「コミュニズム」である。結局、マルクスには、不連続的差異と連続的差異の両面があると言えるだろうし、それが、後期において後者中心になったと言えよう。
 敷延して、柄谷氏について言うと、彼の理論的考究は、差異をめぐっていたと言えよう。マルクスの差異そして単独者の差異を問題にしていた。それは、自然の差異と言い換えてもいい。そして、ポストモダニズムの旗手となり、80年代華やかに活躍した。その差異論は、結局、連続性/不連続性に関するものと言っていいだろう。しかし、私見では、彼が行き詰まったのは、ドゥルーズ哲学を取り込むことができなかったことに因る。カント哲学の差異論に留まり、それとマルクスの差異論をつなげた形に帰結したのである。カント/ドゥルーズの差異哲学の問題があるのであるが、柄谷氏は、カントからドゥルーズへと飛躍することができなかったのである。つまり、唯物論の枠が強固過ぎたと思う。カントの超越論哲学に留まったのである。つまり、イデア界に柄谷氏は達することができなかったのである。結局、柄谷氏の理論は、近代にもどるという反動性をもってしまったのである。
 さて、話は変わるが、ドゥルーズが最晩年にマルクスに関する著作を書きたかった(『マルクスの偉大さ』というタイトルであった)とのことであるが、以上から見ると、確かにそれは、マルクスの差異論となったと思われるが、しかし、ドゥルーズ自身が連続/不連続性で混乱していたように、それは、マルクスの不連続的差異を正当に提示できなかったであろうと思われるのである。
http://biblia.hp.infoseek.co.jp/g/gs28.htm
 ところで、昨年亡くなったデリダマルクス論等を読んでみたい。後期デリダは、政治、社会に関わるようになっていたのである。不連続的差異論と後期デリダとの比較論は意味深いものとなるだろう。

p.s. 中沢新一氏は、ドゥルージアンであり、とりわけ連続差異論の立場に立っている。彼のポスト資本主義としての贈与経済論は、反動的であり、不連続的差異論的に還元する必要がある。なぜならば、それは、一元論的であるからであり、全体主義的になる性質のものである。

cf.
http://www.jissensha.co.jp/shoseki/27.seinen.htm
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism_genriron_shihonronco_sasakironco.htm
http://www.google.co.jp/search?q=%90%C2%94N%83%7D%83%8B%83N%83X%81@%8F%89%8A%FA%83%7D%83%8B%83N%83X&num=30&hl=ja&inlang=ja&ie=Shift_JIS
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4791761537/kantank-22/ref%3Dnoism/250-2665998-1257865
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/
http://subaru.shueisha.co.jp/html/person/p0206_3_txt.html
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4878935596.html
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140093099/250-2665998-1257865
http://www.google.co.jp/search?q=cache:mnvsFr4JDh8J:www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/books/bks0411.htm+%E5%A4%A7%E5%B7%9D%E6%AD%A3%E5%BD%A6%E3%80%80%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9&hl=ja&ie=UTF-8&inlang=ja
http://www5e.biglobe.ne.jp/~WKAPITAL/negro.htm
http://www.kobushi-shobo.co.jp/foramu/foramu.htm
http://homepage3.nifty.com/katote/Empire0306.html
http://www.melma.com/mag/58/m00026258/a00000004.html