日本文化と砂漠:多神教と一神教、アラビアのロレンスの悲劇

[文化][宗教][映画] 日本文化と砂漠:多神教一神教

今日、映画『アラビアのロレンス』の前半にあたる部分を見たが、砂漠の一種優美さ、美しさに深い感銘を受けた。何にもない砂漠が地平線に広がる。そこから、太陽が昇る。何もない砂漠をラクダにのったアラブ人(ベドウィン族)やロレンスが行く。岡本太郎が『沖縄文化論』で、何にもないことへの一種崇高な感動を述べていたが、正に砂漠の何にもない風景に深く感銘を受ける。これはいったい何なのだろうかと思う。余計なものをこそぎおとしている。日本庭園、石庭とかを想起する。象徴抽象的な表現。俳句。ひょっとしたら、日本人の血、遺伝子には、砂漠の風景、原風景があるのではないかとさえ思ってしまう(一種ノスタルジアさえ感じるようだ)。遊牧民(モンゴル民族?)である。では、日本の八百万の神とは何かである。これは、砂漠と対になるのではないだろうか。色即是空(、空即是空)ではないか。多神教一神教(また、一神教多神教)ではないか。もっとも、一神教は超越神ではなくて、内在神的である。超越でなく、転超である(イスラームタウヒード〔存在の一性〕)。さて、ここから、さらに大胆に推量すると、超越神ももともとは、内在神ではなかったか。ヤハウェアッラーではなかったかという気がした。そして、実に一神教はさらに、本来、空ではなかったか。何にもないことではなかったか。もっと言えば、イデア界ではなかったか。イデア界は、現象界的に言えば、空であり、無である。すると、全宗教は、イデア界即現象界、不連続的差異論に還元されるのではないだろうか。

p.s. 砂漠というと、安部公房の『砂の女』やベケットを想起する。

p.p.s. なーんにもない砂漠への一種の郷愁、飢渇、渇望とは、あまりに物があふれていることへの反動だろうか。とまれ、禅の瞑想にも似ているのではないだろうか。始原への回帰? イデア界的空へ?

3p.s. 数日前、NHKシルクロードの番組をやっていたが、タクラマカン砂漠も、なにか強い憧れ(憧憬)を感じる。

4p.s. この点について、もっと考察を深化させたい。折口信夫のマレビトという問題も含めて。芭蕉西行法師、山頭火等の放浪は、ノマッド的だろう。日本人におけるノマッド(ノマド遊牧民)的衝動。現代は、明らかに定住民というよりは、遊牧民の時代だろう。車や乗り物で移動する、日々。また、思考も、移動し、放浪する。

5p.s. 現代は、新しいヘレニズム(東西混淆)の時代、新しい飛鳥時代であろう。

6p.s. なにもないことへの郷愁とは、原点、母胎、「死」への回帰衝動でもあろう。ニルバーナ(涅槃)。まっさらということでもある。白紙還元。誕生。死即生である。

7p.s. 新、東、光、新しい衣、・・・。

8p.s. あたらしい時間(とき)

9p.s. 新し世、新た世、改た世

10p.s. 新世時代、新世代

11p.s. new epoch(newpoch), new era(newra), neoepoch, neoera

12p.s. ressurection 復活

13p.s. superressurection 超復活

14p.s. 新しい光

15p.s. なんにもないことは、ピーター・ブルックの「空っぽの空間」(empty space)も想起する。

16p.s. 脱け殻、脱皮、生まれ変わり、輪廻転生


[歴史] アラビアのロレンスの悲劇

「内部からの悲劇とは、・・・十一月二十日夜から翌二十一日早朝にかけて体験した異常な事件であった。・・・。トルコ兵に捕らえられ、トルコ軍政官ナヒの前に曳き出された。・・・。」そして、軍政官から、同性愛的な誘惑を受けたようである。「1917年11月20日というこの運命の夜に、なにか彼(ロレンス)の相貌までを一変させ、少なくとも彼にとってはその人間的確信を根柢からゆさぶるような何事かが起こったことだけは、まちがいなかろう。・・・」『アラビアのロレンス 改訂版』(中野好夫著 岩波新書 1963年) pp. 124~128
「第二は外部からする悲劇因であるが、それにはまず1917年11月イギリス政府によってなされた有名なバルフォア宣言がある。すなわち、これもまた「差し迫った軍事的必要」というのに飛びついて、政府がそのときの外相バルフォアにさせた、ユダヤ人の戦争協力と交換に、戦勝の日には彼等が願望の故郷であるパレスチナに祖国の地をあたえようという公約であった。」同書 p. 129
『「イギリスという国は、まるで相手の数だけ約束を与えることができるかのように、シェリフ(フセイン)にはA文書を、各連合国(仏露などを指す)にはB文書を、そしてアラブ人委員会にはC文書を与えておきながら、さらにまたロスチャイルド卿〔有名なロスチャイルド一家で、シオニズム、つまりユダヤ人のパレスチナ復帰運動の指導者の一人だった。・・・バルフォア宣言は彼宛になされた。〕には、まるで反対のD文書を与えてしまった」』同書 p. 131

p.s. ロレンスは、母国イギリスのいわば裏切りにより、自分がアラブ人を裏切っていることに対して、自責の念に駆られるのであるが、しかし、どうであろうか。サイクス・ピコ秘密協定(英仏露でトルコ領を分割する)を、ロレンスは知らされていなかったのであるから、ロレンス自身には責任はないのである。無知であったのであり、アラブの叛乱の指導の最中にそれが判明したのである。私ならどう考えるだろうか。マクマホン協定を、順守するように、イギリス政府に求めるだろう。それが筋というものだろう。だから、アラブの叛乱とは、トルコに対するだけではなくて、イギリスへの叛乱となるべきものである。こう考えたい。どうも、ロレンスの精神には、中途半端なものがあるのではないかと思われる。一方では、アラブの独立を指向しながらも、他方、母国イギリスへの忠誠がある。前者に忠節であるならば、後者は、この場合、否定しなくてはならないのではないだろうか。ロレンスにはナショナリズムがあったと思う。なにか、シェイクスピアを想起する。一方では、王権に批判的でありながらも、他方、王権に忠誠的である。革新と保守反動が同居・併存しているのである。

p.p.s. 『「私はいくどと知れず、二人の主に仕える苦しみに悩んだ。私はアレンビー麾下の将校の一人であり、彼の信頼をえて、彼から最善の努力を期待されていた。同時にまた私はファイザルの顧問でもあった。」』同書 p. 150

3p.s. 『アラビアのロレンスを求めて アラブ・イスラエル紛争前夜を行く』(牟田口義郎著 中公新書 1999年)は、アラビアのロレンス伝説を暴くものとなっているが、今一つ説得力がないようだ。アメリカ人記者ローウェル・トマスがロレンス伝説を作ったとする。確かに、その面はあるとは思うが。
「アラブ史家は1920年を「災いの年」と呼ぶ。英仏はアラブに対する約束のすべてを破り、同年四月のサンレモ協定により、アラビア半島以外の西アジアのアラブ地域を支配下に置いたのである。ファイサル・シリア王フランス軍により追放された。イラクでは反英デモが武力で抑えこまれた。そしてパレスチナでは、アラブ人による反シオニスト・デモがエルサレムで起こり、初の流血事件を生んだのである(四月)。これが現在まで続くアラブ・イスラエル紛争の出発点だ。」同書 pp.149~150

4p.s. 今の私感では、ロレンスには、少なくとも二つの顔というか、二つのこころがあったのではないかということである。当然、一つはアラブの独立を念じるもので、他の一つは、イギリス帝国主義へ加担しているものである。両面をもっていたと思う。それが、最後になって、妥協を画策して、アラブを裏切ることとなったのではないだろうか。つまり、ロレンスにおいて、ナショナリストとアラブ主義者が同居していたということになるが、結局は、妥協的に、前者を選択することになったと思う。だから、牟田口氏の次のコメントは一面的であると思う。
「ロレンスは国益に奉仕する愛国者、言い換えれば、英帝国主義の忠実な先兵であった。大戦末期、イギリスの三枚舌外交〔本当は、四枚舌であろう〕が明るみに出てアラブ軍は動揺した。このとき、彼らが対英不信から兵を収めてしまっては一大事だから、「勝つまでは彼らをだまして戦わせ、勝った後で裏切るしか道がなかった」と語っているのは、ほかならぬロレンス自身であった。すなわち彼はアラブのためでなく、終始祖国イギリスのために戦ったのである。」同書  pp. 166~167

5p.s. 『「アラブ人に対して深い一体感を抱くどころか、ロレンスは彼らを民族としては一顧だに値しないと考えていたことが、今や明らかとなった。・・・、中東を分割しておくことが英国の利益になると彼は信じていた。・・・、彼はアラブ人を英帝国の一部とすることを意図していた。」』と、『アラビアのロレンスの秘密』の著書たち(ナイトリー&シンプスン)の言葉を引用している。(同書 p.211)
中野好夫著の『アラビアのロレンス』には、1917年11月20日の夜、なにか彼の相貌を一変させるような出来事があったと述べられているが、思うに、私感では、ここで、妥協する、ないしイギリス帝国主義者としてのロレンスに変貌したのではないかと推測したくなる。私の印象では、初めからロレンスが、英国帝国主義者として、アラビアで活動したとは思われないのである。ロレンス伝説も問題であるが、反対に、初めから彼を帝国主義者として見るのも単純ではないかと今は感じている。

6p.s. 以上の叙述は少し不整合なので、整理しよう。今の時点での私説であるが、ロレンスはもともとナショナリストではあるが、それが初めは潜在的であり、彼自身アラブの独立を本気で目指していた。つまり、もともと、ロレンスには、ナショナリストとアラブ独立主義者が併存していたのである。しかし、イギリス政府のずさんな外交を知らずに、アラブの独立のための叛乱に関与した。つまり、ロレンスは、ナショナリズムとアラブ独立主義が矛盾せずに協調できると楽観していたのではないだろうか。しかるに、イギリス政府の裏切りであるサイクス・ピコ秘密協定が暴露されて、ロレンスは、矛盾を心に家抱えることになり、苦渋、苦悩の境地となった。そして、その齟齬を抱えていたまま戦局が進む。そして、トルコ軍に勝利する。しかし、イギリス政府とアラブの立場を調整する必要が出たのである。結局、ロレンスは妥協をして、イギリス帝国主義的な方針を基にして、アラブに対処したのである。たぶん、ここにおいて、ロレンスは自分のアラブへの裏切りを恥じていただろう。だから、戦後、アラブから離れて、自分を消去するような後半生を送ったのだろう。

cf. http://homepage3.nifty.com/yagitani/index_ja.htm