特異性と共創共生主義:脱/ポスト資本主義

[叡智学] 特異性と共創存主義(共創共生主義):脱/ポスト資本主義

 共創という言葉は、私の造語ではなくて、既存のものとなっている。http://www.google.co.jp/search?hl=ja&ie=Shift_JIS&q=%8B%A4%91n&lr=
http://blog.melma.com/00073579/?word=%B6%A6%C1%CF
とまれ、私としては、不連続的差異論から派生する共創存主義ないし共創生主義を提唱するのである。おそらく、共創主義とはなんらかの形でつながるであろうが、共創存主義(共創生主義)は、存在の根源・本源界であるイデア界に基づくものである。そして、資本主義的社会に取って換わる社会・経済システムを指向していると言える。それは、単に主観的希望によるのではなくて、現代の人間存在、自然存在の滅亡の危機に直面して、根源から発せられる理論・仮説である。とりわけて、私は日本というものの危機を強く感じているので、現代日本への積極・能動的的批判の意味が強い。
 さて、今日の人類の危機は、資本主義にあることは説明は不要であろう。そして、資本主義に対抗した社会主義等はほぼすべて破局的に失敗したことは言うまでもない。現在、資本主義に対抗する有力なシステムは、イスラームのシステムだろう。私見では、このシステムは、私の言う共創存主義を内包しているので、ここでは、共創存主義に焦点をあてて検討する。(社会主義共産主義ファシズム等の国家独裁主義等の失敗は、簡単に言えば、資本主義への完全な反動であったことによると思う。反動は暴力主義的であり、また、単に暴力的というのでなくて、専制・独裁的であったいうことである。つまり、資本主義体制と併存する「民主主義」が否定されるということである。)
 本論に入ろう。人類史の問題となるのであるが、限定すれば、父権的文化の問題である。キリスト教西洋文化一神教、西欧近代の問題である。最初に父権文化に絞ろう。これは、これまでの検討から、母権文化、多神教、女性文化(私見では、女性文化とは、都市文化と自然文化とを結びつけていた。だから、女性都市/自然文化である。)を否定して、男性中心の国家文化(これが文明と呼ばれるべきものだろう)を形成した。女性は従属的なものに強制された。この父権国家文化の動きは、インド・アーリア民族とセム民族の大移動による。そして、ここから、ユダヤ教キリスト教と発生して、帰結として、今日の西洋文化が創造された。資本主義はこの最終的帰結である。つまり、簡潔に言えば、キリスト教的父権主義の帰結である。これまでの検討から、これは、超越性、反動暴力的連続同一性をもつのであり、暴力・破壊・戦争主義である。(とは言え、ここには、なんらかの積極性があったに違いないが、本論から外れるのでここでは論じないが、稿を改めて論じたい。)これが資本主義の暗黒面である。ここからの脱却の論理を考えよう。
 父権主義の問題は、反動主義である。これは、本源のイデア界を否定して反動化しているのである。そして、人間の潜在意識として、イデア界があるのであり、これが資本主義の冷酷無惨な世界に対抗していると言える。資本主義への対抗とは、ここから発していると考えられる。唯物論者も、実は、イデア界に発して、反資本主義なのである。明確に言えば、イデア界の強度が、資本主義へのアンチの姿勢を生んでいると言える。倫理や「愛」というのも、このイデア界の強度に発すると言える。ということで、イデア界の強度を新生させた新しいシステムが必要になっているのがわかるだろう。これが共創存・共創生主義システムである。認知的には、まだ、まったく抽象的、理論的段階ではあるが、実は現実においては内在しているものである。つまり、人間社会は、生きていくためには、共創存・共創生主義でなくてはならないのであって、これが、資本主義によって、破壊されていると言える。そして、徹底して、資本主義は、これを破壊するのであり、今日の超危機がある。とまれ、この内在している共創存・共創生主義を明確化して、実践具現的に発展させないといけない。ここで、個体的には、認識革命が必要となる。それは、反動的な心性、精神性を、能動肯定的なものに変容されないといけないということである。いわば、認識のスピノザ化が必要である。つまり、反動から肯定共感性へと意識をチェンジすることである。ここに個体における、共創存性、共創生性の出発点があるだろう。意識革命と言っていいだろう。教育において、この共創存・創生主義を土台にすべきだろう。競争主義ではない。
 理論的には、個体的には、以上でいいのだが、さて、社会・経済的にはどうだろうか。共創存・創生主義経済とはいかなるものだろうか。ここで、最初にあげた共創主義と関係してくるのだろう。また、見方を変えて言うと、共創存・共創生主義(略して、共創共生主義としよう)は、民主主義と関係する。つまり、共創共生主義とは、民主主義の現代・未来的なあり方であると考えられる。だから、共創共生民主主義と言ってもいいだろう。(考えると、西欧近代主義には、資本主義と民主主義が併存しているのである。これは、キリスト教文化とギリシア文化と言うことができあるだろう。そして、現代において、アメリカ・キリスト教資本主義=「グローバリズム」が支配的となり、後者が圧迫・抹殺されているのである。)そして、共創共生民主主義経済こそ、資本主義を乗り越える経済システムと言えるだろう。そして、忘れてならないのは、これは哲学的には、差異に基づくということである。それも、特異性としての差異である。特異性において、イデア界的強度が発動するのであるから。この個体の特異性に、差異共創共生性の強度があると言えるのである。おそらく、アナーキストシュティルナーは、『唯一者とその所有』において、この考え方に近づいたと思う。唯一者とは、特異性の個体存在である。それは、実は、差異共創共生主義をもつのである。しかし、シュティルナーは、反動的な面があって、所有において、奪取という暴力を提起してしまっている。唯一者とは、個体の特異性のことであり、特異性はイデア界的差異共創共生性をもつのである。
 なお、差異共創共生主義経済の具体像については、後で検討したい。しかし、今日、現実には、このような内容をなんらか内在させた経済システムは既に動きだしているだろう。ボランティア経済、社会連携的企業体、上述の共創、そして、イスラーム経済等々がそのようなものだろう。


[総合] 津波被害は人災か?

http://www.aljazeera.com/me.asp?service_ID=6522


[叡智学] 父権的言語とルサンチマン

 ニーチェD.H.ロレンスは、兄弟のようなところがある。それは、人間の心理に通暁していたということである。両者、千里眼である。そして、両者、ルサンチマン(怨恨)的あり方を否定した。これは、哲学・思想的には、スピノザの能動・肯定の哲学が源泉と言える。もっとも、これは、ある種自然発生的な面もあるだろう。よろこびの肯定は、ジョン・ラスキンウィリアム・モリスにもある。
 さて、不連続的差異論から見ると、超越性=父権制は、反動暴力である。そして、これは、反感、憎悪、嫌悪、嫉妬、蔑み、軽蔑、侮蔑、暴力的である。近代合理主義=資本主義=キリスト教はこのようなものである。ホッブズシェイクスピアはこれを正確に捉えているだろう。私が問題にしたいのは、どうして、これらの「弱者」(ニーチェの意味で)は、「強者」を憎み攻撃するのか。(これは、イラク侵略にもつながるだろう。)不連続的差異論から考えてみよう。(これは実は以前に検討したことではあるが、再検討する。)
 超越性=父権的言語とは、イデア界を否定・棄却するようなものである。しかし、連続同一性の欲望をもつのであるから、全体であらうと欲するのだろう。つまり、超越神ヤハウェのように、自己中心的に支配したいのだろう。我こそ、絶対であり、他に優れたものは認められないのであり、他者の存在を否定しようとする。しかし、他者を否定しようとすること自体が、他者を認めているのである。ここに超越性=父権的言語の弱点があると言えよう。結局、自己優越のためには、他者を必要とするのである。ということは、唯一的ではないということである。超越神は唯一神ではないだろう。他者を必要とするのだ。つまり、多神教を否定するために必要とするのだ。結局、超越性=父権的言語は嫉みがベースにあるのだ。己は絶対であるのに、そうでないという不幸があるのだ。そこで、威張り、他者を否定するのである。結局、問題は、イデア界の否定反動であるから、絶対を欲しているのであるが、現実は多様であって、自分の支配は及ばないのである。つまり、欲望と現実の不満のギャップが極端である。全体であるべきなのに、優れたものは多くいるのである。というか、超越性=父権的言語の否定反動性に対して、内在性=母権的言語は反感をもたらすものなのであろう。つまり、後者の否定が土台となって前者が形成されているのである。だから、後者的存在はがまんがならないのである。己の存在を否定する、脅かすものである。だから、後者を憎み、否定する暴力を発動させるのであろう。両者は二律背反的である。とまれ、結局、戦争でなく、平和を選択するならば、後者を吸収する必要があるのである。超越性=父権的言語を内在性=母権的言語に包摂する必要があると思う。だから、新たな内在性、新たな母権主義が発生するのである。


[政治] アメリカの敗戦:田中宇の国際ニュース解説から

http://tanakanews.com/f0105iraq.htm


[言語] アメリカ英語とイギリス英語:私感

英語と言えば、今はアメリカ英語が主流であろう。しかし、私の耳や言語感覚から言うと、イギリス英語の方が、音声的に明快であり、文章も品格がある。確かに、イギリス英語は、やや気取った風はあるが、それほどでもない、一種癖のようなものと見ればいいだろう。しかるに、アメリカ英語であるが、音声的には粗野な、がさつな感じがする。東部のアメリカ英語は聞きやすいだろうが。もっとも、私の趣味からいうと、両者の中間の英語が理想的である。オーストラリア英語、カナダ英語がそうなのだろうか。これから検討したい。

p.s. 日本人が英語が苦手なのはいろいろな原因があるだろうが、ひょっとして、アメリカ英語を中心にしているからではないだろうかとふと思った。イギリス英語をベースにした方が、音声的には入りやすいかもしれない。BBCその他のジャーナリズムの英語も味があって、学んで楽しいのではないだろうか。

[総合] アメリカは津波情報は出していない

http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/467