アラビアのロレンス、奈良女児誘拐殺害、人間の暴力の源泉、民主主義

[歴史][社会] 『アラビアのロレンス』(R.グレーヴズ著)要約

アラビアのロレンス』 ロバート・グレーヴズ著 平凡社ライブラリー

トルコの支配・・・最後のスルタン、アブドゥル・ハミッドpp.10~12

アラブ側
シェリフ(預言者ムハンマドの子孫)・フセイン・・・長男アリ(p.50)、二男アブドゥラ(p.46)、三男フェイサル、四男ゼイド
アウダ・・・アラビアの最大の闘士(p. 127~)

ロレンスは、最初は考古学者であったが、測量隊に加わり、後に、イギリス政府の諜報部員となる。そして、ロレンスは、アラブの自由のための反乱のためのカリスマ的人物をさがしていたが、それが、フェイサルであった。フェイサルとともに、ロレンスは、ウェジュフ遠征を行う。それから、アカバ攻略に向かう。(ロレンスとアウダは一目見て意気投合した。アウダがウェジェフの南下してきたのは、アラブ人の自由の境界を自分の砂漠地方にひろげたい一心からであった。pp. 128~129)

イギリスのいわゆる二枚舌。
1.密約サイクス・ピコー協定(英仏露間)・・・約束された地域の若干は併合し、残部についてはそこに「勢力範囲」を確立するという取り決めで、アラブ人の自由はなかった。
2.イギリス政府は、エジプトの高等弁務官と通じて、シェリフ・フセインの要求(アラブ人がアラビアだけでなく、シリアおよびメソポタミアにおいても、自由をうるようにすべきである)を承諾していた。

イギリスの外務省に二つの部があり、それらが別々にこれらに責任をもっていて、互いに秘密主義であった。また、高等弁務官は、政府に警告していた。アラブ人のための自由は将来フランケンシュタインの妖怪になるだろうと。ロシア革命が1917年に起こり、ボルシェヴィキがその密約を発表した。ロレンスは衝撃を受けた。ロレンスは、嘘をついてアラブ人を安心させた、「イギリスは文字のうえでも精神のうえでも約束を守る国であり、後の誓言は前の協定を抹殺するものであると。」p.161
ロレンスは「やがて「反乱」に天衣無縫の成功をもたらし、その結果列強はアラブ人から彼らの獲得したものを徳義上あるいは常識上奪うことができなくなる。すなわち彼は大戦終結後、会議室においてアラブ人のためにもう一つの戦いをたたかうことになるのである。」pp.161~162
「彼は砂漠のアラブ人のためにのみ自由を願っているのだが、彼らの天真爛漫と理想主義とはダマスクスあるいはバスラの汚濁に染まるであろう。自由という贈物はいったい与えるに値するであろうか。
 思考と羞恥のそうした縺れのなかで彼はベドウィン式に一身を運命の手にゆだねる決心をしたもののようである。」p.p.162~163
1917年6月 ロレンスはダマスクスへ達した。
1917年7月 アカバ攻略に成功する。
その後、カイロに行き、アレンビー総司令官と会見して、物資、兵器、資金の提供を約束させた。そして、フェイサルはアカバを根拠地にすべきことをロレンスは説いた。
ロレンスに指導者の役目がふりかかってきた。p.216
「勝利はつねにアラブ人を堕落させた。アラブ軍はいまではもはや襲撃隊ではなく、アラブ人の一部族を何年間も金持にしておけるだけの世帯道具を積み込んでよろめき歩む貨物隊商であった。」p.231
トルコの列車の爆破(ムドウワラにおける)が成功して、アカバの陣営は活気づいた。ロレンスは、フェイサルのようなカリスマ的な人物にされていく。
バトラ近くでの、トルコの列車爆破も首尾よく行われ、貨物を略奪した。そして、「次の四ヶ月間に、十七両の機関車を破壊して、多くの略奪品を獲得した。」p.237
エジプトのアレンビー総司令官にロレンスは説明した。「トルコ軍はアラブ軍の兵力がわからぬのでためらっている。なぜなら、アラブ軍は大部分不正規軍であるから小隊をなして出没し、大部隊としての行動をとらぬ、したがって飛行機もスパイも彼らを計算することができないでいるからだ。他方、ロレンスとフェイサルとは、トルコ軍が正規軍であるのとアラブ人の情報活動がすぐれているのとで、トルコ軍の兵力をつねに正確に知っている。だから、アラブ軍はいつ戦うべきか、いつ戦いを避くべきか、いつでも決めることができる。」p.237
ロレンスの次の計画は、「アズラクから古代のガダラに当たるヤルムク村へ進撃」して、ヤルムク橋を爆破することであった。一行に、族長のアブデル・カデルが加わった。彼は、「けんか好きで、聾者で、野卑」で宗教的狂信者であった。一行は進むが、アブデル・カデルが失踪したことに気づいた。敵側に情報を知らせに行ったのである。作戦は所記の目的は達しなかったが、トルコの列車を爆破した。冬になり、天候が悪くなり、パレスチナのトルコ軍に攻めることができなくなった。冬を越すことになった。ロレンスはアカバに戻った。そして、そこで、自分の親衛隊を増員した。ロレンスは泥棒のアブドゥラを雇った。「泥棒のアブドゥラと、もう一方の隊長で、もっともまともな将校タイプの男であるアブドゥラ・エル・ザアギは親衛隊志願者の全部を二人で吟味した。こうして命知らずの面構えをした悪党の一団がロレンスのまわりにでき上がった。アカバのイギリス人は彼らを殺人団と命名したが、この殺人団はロレンスの命令ではじめて殺人する団体であった。彼らは大部分アゲイル〔ラクダ兵であり、中央アラビアのオアシス地方からきた若い農民の一隊〕で、すばらしいラクダ使いであり、百ヤード離れたところから自分のラクダの名前を呼んで、これに荷物の番をさせることができた。ロレンスは彼らに月六ポンドを支給し、かつラクダと食糧を与えた。」pp.286~287
死海の南岸を見下ろす村落群であるタフィレへの攻撃を行う。タフィレ攻撃は無用な戦いであったとロレンスは考えて、慚愧の念に堪えなかった。それから、死海の東岸地方への進撃を計画したが、失敗したので、司令部に辞職を願った。しかし、イギリス帝国の戦時内閣はアレンビーが、西部におけるゆきづまりを東部戦略における勝利によって打開することをあてにしていたから、そのアレンビーの攻撃を掩護するものとして、ロレンスが必要とされた。
イギリス政府の無責任な外交:
1) シェリフに対して、アラブ人を独立させるという約束(マクマホン協定)
2) サイクス・ピコー協定(密約):英仏露で分割する
3) カイロにいる七人のアラブ人有力者に対する約束:大戦中アラブ人がかちえた領土はアラブ人のものとする
4) シオニストへの約束:パレスチナユダヤ人の民族的郷土を設ける(バルフォア宣言
北部に遠征し、線路を破壊し、またメゼリブ駅を攻略した。電信線の切断、転轍機の破壊、起動の破壊を行った。次に、テル・エル・シェハブの橋を爆破した。そして、アレンビーによる勝利があった。破竹の勢いで撃破して、トルコ軍は潰走中であった。アラブ軍の攻勢が続き、勝ち進む。ロレンスは、ひとりも捕虜にしないように命令した。結局、トルコ軍は壊滅した。
戦争は終わり、ロールス・ロイスに乗ってロレンスはダマスクスの市街に入った。代理知事のシュクリを車に乗せて、連れ出した。ダマスクスは喜びに熱狂していた。ロレンスは公会堂で、フェイサルの代理として、これまでの政府を廃止すると宣言した。ロレンスはシュクリらを助けて市および地方政府の組織に着手した。彼らは急遽幕僚を集めて必要な行政措置をとりはじめた。そして、アレンビーが来て、フェイサルも訪れ、ロレンスは、二人の会見の通訳となった。ロレンスは、アレンビーにアラビアを去る許可を求めて、与えられた。
 休戦の日、1918年11月11日、4年ぶりにロレンスはロンドンの地を踏んだ。平和会議のため、フェイサルとパリに行く。フェイサルはフセインの代理であった。そして、フセインの要求は、ヘジャズ王という称呼であった。そして、野心家のフセインは一大宗教帝国の建設を考えていた。ロレンスはダマスクスを新しいアラブ人の独立の永続的な本拠にしたいと思った。そして、フェイサルをダマスクスを首都とする新しいシリア国の最初の統治者にしたいと思った。そして、メソポタミアはさらに別のアラブ国を形づくると考えた。そして、アラブ合衆国を考えた。しかし、サイクス・ピコー協定はモスルをフランスの勢力範囲内に入れていた。イギリスはメソポタミアをイギリスの統治国にしようともくろんでいた。数ヶ月にわたる陰謀の結果、フェイサルとクレマンソーはある秘密協定に達したらしい。「フェイサルはフランスの援助によってダマスクスを起点とする内陸シリアの大部分を統治することになり、フランスはベイルートとシリア海岸地方を手に入れ、ユダヤ人はイギリスの保護のもとにパレスチナに郷国を与えられた。しかしイギリスはメソポタミアを手放さず、この地におけるアラブ人の独立運動をすべて抑圧した。」p.393
ロレンスは平和会議の終了とともにロンドンに帰って、1919年11月オックスフォード大学の七年研究員に選ばれた。その後、政治的に展開した。フランス政府はシリアに対する態度を硬化させ、フェイサルはダマスクスから追い払われた。その後、バクダードの有力な筋から招聘を受けて、現在のイラクの王位に即くように言われて、戴冠した。1921年、チャーチルが植民大臣に任命され、ロレンスを呼び寄せて、東部問題を片づけてくれるなら、公正な処置を取ろうと約束し、ロレンスを顧問という地位を提供したロレンスは戦争中アラブ人に与えられた誓約を最後には尊重するという条件つきで承諾した。最後に、ロレンスから著者グレーヴズに送られた手紙から。

「・・・、私は自分が(他国民のために)欲したすべてをえてーーチャーチル式の解決は私のかつての希望以上でしたーーこの勝負から手を引いたのです。アラブ人の民族精神がそれをもとにしてイラクに近代国家をつくりうるほど永続的で不屈かどうかは、私の知るところではありません。私はすくなくとも可能性があると考えています。われわれはこの民族精神に対して、義理にも乾坤一擲(けんこんいってき)の機会を与えなくてはなりませんでした。それが成功すればシリアの人民も同じ実験を試みるでしょう。アラビアはつねに定住民地域の運動の圏外に立つでしょう(わたしはそれを望みます)。パレスチナシオニストが成功すれば同様でしょう。彼らの問題は三代めの子孫の問題です。シオニストの成功はアラブ人のシリアおよびイラクの物質的発展を著しく助長するでしょう。」p.403

cf.
http://banyuu.txt-nifty.com/21st/2004/11/post_30.html
http://ww1.m78.com/topix-2/lawrence%20in%20arabia.html
http://jtnews.pobox.ne.jp/movie/database/treview/re732.html
http://www.janjan.jp/world/0404/0404123126/1.php
http://www.d4.dion.ne.jp/~yanag/kora10.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~tv8s-tt/arabia.html
http://polyglot.papara.net/japanese/essay/life/lawrence2.html
http://www.crock11.freeserve.co.uk/jlawrence.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~uz9y-ab/lawrenceofarab.htm
http://groups.yahoo.co.jp/group/newlawrenceofarabia/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB


[社会] 奈良女児誘拐殺害について:『ロリータ』と『羊たちの沈黙』他

 本事件の全容が明らかになっていない現時点で、安易な判断は慎むべきであるが、今の時点で愚考してみたい。さて、私は、ナボコフの小説『ロリータ』と映画で有名になったトマス・ハリスの小説『羊たちの沈黙』を想起した。前者は、少女のロマン主義者である中年男の性犯罪者を描いている。後者は、どうやら容疑者に近いような、母親との絆の希薄な人間の犯罪(母体を想起するような大柄の女性を殺害して、皮膚をはぎ取り、それを衣服にするという異常な、猟奇的犯罪)を取り上げている。私はこの二つの小説には共通項があると思う。それは、一種のマザーコンプレックスである。しかし、それは、正しくは、イデア界の強度が反動化された性的衝動暴力であろう。つまり、犯罪者は、イデア界を能動的に肯定することができないのである。それは、超越的言語暴力の社会においては、内在的言語をもつイデア界が棄却されていることが一因であろう。そして、イデア界の衝動と結びついた反動暴力が、少女や女性への犯罪となるのだろう。つまり、イデア界的渇望があるのだと思う。それを積極的に肯定するチャンスが与えられなかったということではないだろうか。ただ、否定だけである。イデア界的渇望は、否定・反動的な形で、つまり犯罪として発現するのではないだろうか。(考えてみれば、資本主義も、イデア界の渇望が反動化した欲望をもっているだろう。だから、満たされないのだ。)イデア界の強度こそ、絶対的力であり、これが否定・反動的なままであると、衝動的になり、犯罪を生むだろう。(テロリズムもそうした面があるだろう。)
 以上の観点で、本事件の一つの説明ができるだろう。ルサンチマンが原因ではあるが、これは、イデア界的能動・肯定をもてなかったことによるのであるが、その否定・反動態として、倒錯した異常少女性愛欲望・少女殺害欲動があるのだろう。イデア界的肯定・能動文化を構築する必要があるのである。超越的反動暴力(ブッシュ)と反動イデア界的倒錯的性的欲望暴力はいわばメダルの裏表である。

p.s. 欲望と欲動であるが、この場合の倒錯的性的欲望とは、反動的暴力欲動をもつということである。つまり、否定的な欲動が倒錯的性的欲望になっているということだと思う。

p.p.s. 以上は、今の段階での私説であり、間違っている可能性があることをお断りしておきたい。


cf. 以下『ロリータ』と『羊たちに沈黙』の要約とコメント

ロリータ(1955年) ウラジーミル・ナボコフ作(大久保康雄訳 新潮文庫

             第一部

ロリータへの愛慕。私は彼女は誰かの生まれ変わりではないかと思う。私がある夏最初の少女(アナベル)を愛さなかったらロリータは存在しなかったかもしれない。
私は1910年パリに生まれた。父は、穏やかで、暢気で、様々な人種の遺伝子のカクテルみたいな人間だった。フランス人とオーストリア人の血が混じり、それにダニューブ沿岸の種族の血が少々混じったスイスの市民である。父はリヴィエラに豪華なホテルをもっていた。母はイギリス人で、美しい人であったが、私が三つの時に亡くなった。ほとんど記憶がない。叔母のシビルが家族のめんどうをみた。子どもの私は豪奢なホテル・ミラナで過ごしたが、少女アナベルに出会った。彼女も混血でイギリス人とオランダ人の血が半々混じっていた。私は彼女との情熱恋愛に陥った。「ある魔術的な宿命的なつながりによって、ロリータの前身がアナベルだということは確信できるように思う。・・・私たちにとっては、
霊と肉とは、完全に渾然一体となったものなのだ。私は彼女が死んでからずっとあとまで、彼女のさまざまな考えが自分の内部に去来するのを感じた。私たちは知り合うずっと前から同じ夢を見ていたようだ。あとで日記帳を見せ合って、不思議な類似関係を発見したのだ。同じ年(1919年)の同じ六月に、遠くへだった二つの国で、迷子のカナリヤが、それぞれ彼女の家と私の家とに飛び込んできたこともある。」
夏の海岸でのアナベルとの情熱恋愛体験以来、「私は、海岸線のようにまっすぐに伸びた四肢と熱い舌をもつあの少女に取り憑かれてしまった――ようやく二十四年後に彼女をもう一人の彼女に化身させることによって、その呪縛から逃れることができたのだ。」
私は大学生のとき精神病関係から英文学に転向した。つきあいを利用して、孤児院や感化院等へ行き、少女たちの観察を堪能した。「少女は九歳から十四歳までのあいだに、自分より何倍も年上のある種の魅せられた旅人に対して、人間らしからぬ、ニンフのような(つまり悪魔的な)本性を表すことがある・・・。この選ばれたものたちを「ニンフェット」と呼ぶことにしよう。」
私は二つの異性を意識した。一つはイヴ(普通の女性)であり、一つはリリス(ニンフェッタ)であった。
私がヴァレリアにひかれた理由は、彼女が少女の真似をしたからだ。そして、彼女と結婚したが、彼女は実際は「ぶくぶく太った、脚の短い、やたらと胸のでかい、知恵の足りない、ラム酒漬けのカステラみたいな女だった」。「1939年の夏、アメリカにいる伯父が、私がアメリカへ渡ってその地に住み、彼の仕事に協力することを条件に、毎年私に数千ドル贈るという遺言を残して死んだのだ。これは私にとって、渡りに舟だった。」 しかし、問題が起きた。ヴァレリアには愛人がいて、夫より愛人のタクシー運転手にひかれ、また、愛人も彼女を離さないようであった。私は彼女に出ていくように告げ、荷物をまとめて、彼女と愛人の元陸軍大佐は出ていった。
やっと合衆国に着いたときは、第二次世界大戦の暗雲が地球を覆っていた。私はカナダの北極圏探検隊に加わり、健康な生活を送ったが、文明社会にもどるとすぐに狂気の発作を起こした。
伯父の会社の社員だった人から、彼のいとこが部屋を貸したがっているということで、私はラムズデイルの町に行ったが、いとこの家は火事になってしまい、彼の妻の友人のヘイズ夫人の家に空き部屋があるというので、そこへ行く。粗末な部屋であり、すぐ帰ることを考えていたが、ベランダの海辺でマットに寝ていた少女に、私はアナベルを見た。そして、その少女が、アナベル以上であった。彼女は、ヘイズ夫人の娘ローであった。
私はロリータへの愛慕を募らせるが、ヘイズ夫人の存在や介入でロリータとうまく接することはできない。【ヘイズ夫人と娘のロリータはライバルで、模倣欲望が生じている。つまり、下宿人の私を対象にする一種の三角関係である。】日曜日にピクニックへ行く予定であったが、ハミルトン夫人の娘が熱を出したので、延期となり、ヘイズ夫人は教会へ行くが、ロリータは怒っていっしょに教会には行かないと言う。私は狂喜してロリータをさがしに階段を下りていく。私(ハンバート・ハンバート)は、ロリータと戯れ、彼女に知られず、快感を得る。イヴ的な挑発するロリータ。【ロリータの悪戯好きな性格は、一種トリックスター的であるし、また、ルル的でもある。始原児と言うべきか。また、悪党的、小悪魔的でもある。善悪の彼岸的でもある。生成の無垢。自然児。痴人の愛のナオミ的でもある。これらを、一括して何と言うのか。神話的には何なんだろう。コレー? リリス・イブ? どうも、イシュタルのような女神ではないのか。女神文化はある意味で、倫理・道徳以前の文化であろう。性愛が自然のままに受け入れられていたと思われる。系統発生の反復ではないだろうか。トリックスター的少女とは、女神の系統発生的反復では? 無垢と官能が共存している。そう、それはある意味で女たちのエロスであろう。猥褻ではなく、純粋な、純潔な、無垢な官能性。自然な官能性。堕落以前の官能性。エデンの園の官能性。楽園追放前の無垢な官能性ではないのだろうか。とにかく、異教的な女性像だ。ホーソンの緋文字の女主人公へスター・プリンの娘パール。ユングとケレーニイの『神話学入門』を調べること。】
ロリータはキャンプに出かけることになるが、行く前、家の中へ駆け込み、私の腕に抱かれ、口づけされた。その後、大家のヘイズ夫人シャーロットからの情熱と求愛の手紙を受け取る。私は、シャーロットと結婚すれば、ロリータに公然と触れられると考えて、結婚することを決意する。結婚して、ヘイズ夫人は美しくなった。彼女は独占欲が強く、自分の娘のロリータを本当に嫌っていた。
ラムズデイルから数マイル離れた森の中の湖(アワーグラス湖)に、七月の終わり一週間猛暑が続いたときに、毎日ドライブした。妻は娘のロリータを寄宿制の学校に入れて、ロリータの部屋にお手伝いを入れたいと申し出て、私は窮境に陥った。妻とともに湖を泳いでいるとき、妻シャーロットを湖水中で溺死させるという考えが浮かんだが、実行はできなかった。
「少女とのうずくような、甘く、せつない、肉体的――ではあるが、必ずしも交接の必要のない――関係を追い求める性犯罪者の大多数は、・・・毒のない、気の利かない、消極的で弱気な異邦人に過ぎない。」と私は意見を記す。

【ここで、これまでのこの作品の文章の印象は、際どい内容ではあるが、いくぶん淡々とした観のある散文の文体である。主人公は自分を、ロリータを愛する「詩人」と見ているが、文体は乾燥した散文を感じるもので「詩人」の感じではない。チェーホフの文章は確かに散文ではあるが、エレガントさ、上品さ、優美さ、音楽を感じる香気のある散文である。何が散文にこのような相違をもたらすのか。勿論翻訳の問題もあるが措いておくと、
叙情性というか、歌う感じが、散文に籠っていると、詩的な散文になるのではないだろうか。湿度と乾燥の両面のある文体としての散文である。ここから見ると、ナボコフの文体は乾燥した散文であり、湿度・歌う要素が少ないと思う。そう、自然科学者のような文体と言おうか。冷たい(「体温」の低い)観察力や考察力を伝える文体だと思う。そう、一種ハードボイルドに近い感じがある。
この観点を現代の文学に当てはめると、文体に湿度・歌・情温(心温、魂温)――歌魂――が欠如して、冷ややかな醒めた不協和音が生じていると見ることができるのではないだろうか。もっとも、「魂」の体温の低下とは、「魂」による共感ネットワークの喪失であり、倫理とはまた「魂」の新生でなくてはならないだろう。倫理魂とでも言おうか。それとも倫魂。また、男女(ゲイやレズビアンを含めて)の結合であるべき結婚が解体してしまっている。結婚は本来、結魂であるべきだろうし、ならば、国家・行政的な籍を入れる必要はないのだ。それは、ロレンスが言うように、コスモスと結びついた魂結であるべきである。そう、恋愛結婚ならぬ恋魂でもある。】

【ロリータがキャンプに行っている間の、私と妻との生活を記述した箇所はフロベール風の写実主義というのか、退屈でつまらない。】
ロリータがラムズデイルの家に帰ることになり、私は策略を巡らし、かかりつけの医師から強い睡眠薬を、うそを言って、もらう。
妻シャーロットが、私の隠してあったノートを読んで、私の秘密・虚偽を知ってしまい、憤り、家から出ていくと言う。その後、電話がかかり、妻が車にひかれて死んだと知らせた。妻は書いた手紙を投函しようと、通りを越したときひかれたのであった。
葬儀後、私は言葉巧みに騙らって人々と対応した。ファーロー夫妻は私を彼らに家にひきとった。妻をひき殺したビールがやってきて、葬儀代を出すと言い、私は了承した。彼は運命の神の代理人であった。
私の計画は、ロリータのいるQキャンプ場まで行って、彼女に母親が病気になって大手術を受けることになったと告げ、それから彼女を連れてホテルを転々とする間に、母親は死んでしまうというものであった。私は、キャンプ場のロリータを迎えに行く。
私はロリータを車に乗せて、計画していたホテル「魅せられた狩人」へ向かった。そこで、彼女に睡眠薬を飲ませて快楽に耽ろうという予定である。ホテルにたどり着き、食後のとき、睡眠薬を取り出して、だましてロリータに呑ませた。すぐに薬は効き始め、私はロリータをベッドに連れて行った。外から、部屋にもどってきて、ロリータが寝ているベッドに入ろうとすると、彼女はくるりと顔を向けて私を見つめた。あの睡眠薬神経症患者には効き目があるが、効力の薄い鎮静剤にすぎなかったのである。

【感想:どうも、この小説は、些末な描写が多すぎて、無味であることが多い。また、それと関連して、単なるつなぎの挿話が多くて、展開が遅いのも退屈である。ニンフェットへの偏愛というテーマはルイス・キャロルの嗜好を拡大発展させたもので、それなりに斬新であるが、それにしても冗長であることは確かだ。】

ロリータの寝ているベッドに私は入ったが、彼女は体を私から遠ざけた。しかし、早朝六時十五分には、技術的な意味で私の愛人になった。彼女が私を誘惑したのである。
「二人は静かに横たわった。やがて私は、やさしく彼女の髪を撫でた。それから私たちはやさしくキスをした。私は、彼女のキスが、むしろ滑稽なまでに洗練された舌の動きを示すことに気がつき、とまどいと興奮をおぼえながら、おそらく幼い頃同性愛の性癖をもった少女から手ほどきを受けたのだろうと結論した。・・・ただ、当代の男女共学や、少年少女の風習や、キャンプ・ファイヤーの馬鹿騒ぎや、その他の種々さまざまなことで、完全に、そして絶望的なまでに堕落させられた、この美しい、ほとんど躾を欠いた少女には、およそ慎みなどというものは微塵も感じられなかったと述べるだけで十分だろう。彼女は愛の営みを、大人の知らない年若い男女の内密の世界のことと考えていた。 ・・・私は・・・彼女のなすがままにまかせた・・・私はいわゆる“セクス”を問題にするつもりはない・・・。私は、もっと偉大な努力に魅惑を感じるのだ――ニンフェットの危険な魔法をはっきりと明確化することに。」p.201~203
私がこうしたことを書くのは「あの奇怪な、恐るべき世界――ニンフェットの愛――における地獄の領域と天国の領域を区分したいと思うからにほかならない。美的なものと獣的なものとが、ある一点で重なり合い、私はその境界線を確定したいのだが、見事に失敗しそうな気がする。なぜか?」
「女性は十二歳で結婚できるというローマ法の規定はローマ教会で承認され、いまもアメリカの一部の州では、ほぼ黙認の形で存続する。」「私は自然に従っただけだ。私は自然の忠実な猟犬にすぎない。」
ロリータは性体験を語った。去年キャンプに行ったとき、同性愛じみた遊びをおぼえた。
Qキャンプで、金髪娘のバーバラとロリータは、チャールズに手伝ってもらって、カヌーを森の中の小さな湖に運んだ。「三人の少年少女は、毎朝、朝露や鳥の歌声など青春の象徴に満ちあふれた美しい汚れをしらぬ森の中の近道を選び、そして、鬱蒼とした藪の中のある地点までくると、ロー(ロリータ)が見張りをつとめ、バーバラと少年は茂みの陰でセクスした。・・・ローは、・・・好奇心と友情に負けて、まもなく彼女とバーバラは、無口で無愛想だが疲れを知らぬチャーリーと、交代でセクスするようになった。」
掃除をする黒人の声が聞こえたので、ロリータを先に出し、後から私は部屋を出た。

【始原児とは、道徳以前の性欲と心情が一体となった「情」・「魂」の自然に生きる子どもであろう。ここには父権的世界のもつ精神と肉体の分裂はない。「私」が、ロリータにひかれる、ニンフェッタにひかれるのは、この一種神話的な無垢なエロス、純潔なエロス、純粋なエロスにひかれるからではないのか。それは、生成変化するエロス・官能でもある。
パン神に近いものだ。異教的な自然の世界である。文学ではこのような少女・娘・若い女性が表現される。クライストのペンテジレーア(ペンテイレイシア、アマゾネスの女族長)、ヴェデキントのルル、マゾッホのワンダ、谷崎のナオミ、ワイルドのサロメイプセンのヘッダ・ガーブレル等(運命の女すなわちファム・ファタルもここと重なるだろう)。なにか神話の女神を感じさせる。異教の女神。月の女神のアルテミスとなにか関係するように思える。また、アフロディテ・ヴィーナスとも関係するようにも思える。アルテミスとアフロディテは、処女神と性愛の女神と対照的だが、どちらも根源的な大女神につながっていると思う。そう、大女神の多様体というものがあるのではないだろうか。それが、女性の無意識にあって、女性は多様な顔をもっているということになるのではないだろうか。
元に返れば、ロリータとは、アルテミスとアフロディテの中間のような存在ではないだろうか。純潔と官能の中間体としての、女性トリックスター的な、少女・ニンフ・女神ではないだろうか。また、ロリータは自然児で、自然のもつ無垢と残酷さをもつと言えよう。
これは、サロメにも通じるだろう。女性の無意識は、女神的生命・自然・力・コスモスに通じていて、これは、父権的な観点からは、悪徳的になったり(ファム・ファタル)、豊饒・恵み・知恵をもたらすものになるだろう(巫女、鬼子母神、エウメニデス)。キマイラとしての女性。あるいは、ユング心理学の言うアニマ・グレートマザーとしての女性と言えよう。
そう、忘れていたが、リリスとも関係があるし、イヴともある。思うにリリスとイヴはコインの表と裏の一体的なものだと思う。リリスはイシュタルと同値だと思う。そう、
女神の位相的な変化があると思う。女神の差異と生成変化としての芸術・文学。
ところで、田口ランディの『コンセント』の女主人公朝倉ユキはロレンスの『逃げた雄鶏』のイシスの巫女に似ていると思う――「新しい自然が生み出した新しい巫女」。神聖娼婦、聖娼である。コスモスと交響するエロティック メディアとしての女性だ。そう、グノーシス主義のソフィアとも類似的だ。】

「手足の頑丈な腋臭の中年男が、その朝、精力的に三度もセクスの相手を努めさせたのは、天涯孤独の孤児なのだ。生涯の夢の実現が、期待以上のものだったにせよ、そうでなかったにせよ、ある意味では、それが目標を超えて――結局、悪夢となりはてたのだ。私は軽率で、愚かで、下劣だった。しかし、正直に打ち明けると、暗く波立ち騒ぐ心の奥のどこかで、また欲望のうずきを感じていた。この哀れなニンフェットに対する私の欲望は、それほど途方もないものだった。」p.212

              第二部

私とロリータの、広いアメリカ各地を巡り回る「遍歴」の旅が始まった。
あどけなさと不実さ、愛らしさと低劣さ、明るい陽気さと陰鬱な不機嫌が混ざり合ったロリータは、そのときの気分次第で、実に癪に障る悪たれ娘になった。
アメリカ中を旅したときの各地のさまざまな記述の連続。

【ところで、この移動のための費用はどこから出たのであろうかという素朴な質問が浮かぶ。今のところ作品には記されてはいない。経済の問題が全く出ていないのは、この作品の細部の記述という「リアリズム」を見ると、実にそぐわない感じである。作者ナボコフは、ロシアの地主階級を父にもっていた。どうも、貴族的な価値観があるのかもしれない。それにしても、リアリズムという観点からは、これは異様な空白であり、そのため、事細かな記述にもかかわらず、なにか非現実的な感が生じる。デフォーの『ロビンソン・クルーソー』や『モル・フランダーズ』ならば、経済的・金銭的なことを事細かに記述して少し煩雑だが、説得力がある。ならば、『ロリータ』は、ブルジョワ的な作品ではなく、貴族的な快楽主義的な作品と言えよう。耽美的な作品とも言える。エロス主義的な作品で、倫理が希薄である。ロレンスの主張したセクスは、「魂」と結びついたコスモス的なセクスであったが、アメリ現代文学になると、ヘンリー・ミラーにしろ、ケルアックにしろ、このナボコフにしろ、「魂」から分離した即物的な欲情・エロスが出てくる。これは、資本主義の金銭=欲望=即物主義の表徴であろう。しかし、また、これは移動・ノマドのための力能・エネルギーになる。「魂」の堰を切った性欲は、道徳を越えて、新しい連結を作る。ニンフェッタと中年男との連結。近親相姦の肯定。つまり、資本主義の欲望の流れは、脱領土化的であり、横断的であり、移動・ノマド的であり、初期資本主義のもっていた父権的なモラルを解体・破壊する。性欲のマグマがカオス的に流動する。もっとも、『モル・フランダーズ』にも、資本主義の移動・ノマド性は出ている。ピカレスク小説とは、資本主義の欲望の流れを表現したものと言えようか。
資本主義の欲望の流れは、以上のように即物的な性欲(獣欲・淫乱性)を生み出すが、逆に言えば、脱領土化的な移動・ノマド・連結を生み出すのである。そして、この欲望の流れは、近代の枠、概念(理性・知性中心主義)主義(イデア・ロゴス主義の帰結)を解体して、欲望の渦動から、新しい魂を発見するのだと思う。つまり、霊的な魂ではなく、
物質的な、質料的な魂(魂質)である。実はこれは、ロレンスが発見(ないし再発見)したものである。イデア・ロゴス主義的な魂ではなく、アリストテレス的な、ストア学派的な魂である。資本主義的な脱領土化的な欲望の流れは、即物的な性欲(獣欲・淫乱・淫蕩・好色)を生むが、それは実に肉体・身体・物質(質料)の魂を見いだす発見のダイナミズムでもある。《この観点からすれば、プラトン的なイデアや魂、キリスト教的な愛とは、質料的な魂の上澄み液、幻想、アポロ的幻影、あるいは上部構造ではなかったのではないだろうかと思える。魂質から発した魂の部分の分離ではなかったか。プラトンは、黒い馬と白い馬に二元論的に分離したが、実際は、魂質という非分離的な多様体のうちの「魂」を分離して形而上学化したのではないだろうか。あるいは、キリスト教は、魂質のうちの「愛」を抽出したのではないだろうか。このような二元論化は、父権的であり、オイディプス的である。思うに何らかの進化的必然があったと思う。つまり、このような実際は幻影である二元論化がなされないと、母権的な異教的な魂質のもつ非分離宇宙性によって、独立的な自我が成立しないと思う。つまり、ヴァーチャルなイデア、魂、愛を超越唯一絶対神的に祭り上げて、奉って、母権的な非分離な自我から脱却できたのだと思う。そして、西洋文化・文明が立ち上がったのだ。で、今日・現在、誰もがわかるように反動的に桎梏となっているのだ。そして、ようやく、土台が、質料魂・魂質が検証されてきたのだ。質料という闇の中の太陽が見いだされてきたと言えよう。それは、暗い、黒い、闇のキリストと言えるだろう。あるいは、コスモスのキリストと。そして、仏教は、結局、この暗いキリストのコスモスと一致するだろう。ロレンスは、愛ではなく優しさと言ったが、思うにそれは、力とともにある優しさなのだ。コスモスの強度とともにある優情なのだ。それは、
理念化されれば、倫理ということになろう。》新しい聖杯探求である。失われた母権・女神・コスモスの魂(マリア・マグダレーナ、リリス、神殿娼婦・聖娼)が反転的に目覚めるのだ。新しいアソシエーションの形成の芽生えでもある。多様体的社会。
という風に考えると、ロレンスのセクスとは魂と結びついていたと言ったが、それは誤解を生む言い方である。そうではなく、資本主義の欲望の流れの中から、ロレンスは失われていた肉体・身体・質料・物質の魂すなわちコズミックなセクス的な魂を発見したのである。だから、アメリ現代文学即物的な性欲文学は、資本主義の欲望の流れを反復しているのであり、ロレンスの発見したものを後戻り的に反復する過程であると言えようか。
だから、ロレンスと比べると、遅れていると言える。ミラーは確かにロレンス的な面はあるが、より即物的な表出を行っていると言える。ロレンスは『恋する女たち』で、堕落することにより、新生が現れると言ったが、その堕落過程をアメリ現代文学は表出していると思う。結局、それは、アメリカの世紀末文学なのだ。ヨーロッパの世紀末・モダニズム文学を反復するのだ。
今日・現代の日本では田口ランディの作品のようなロレンス的な小説が出現している。】
 
【場所の記述がカタログ的で、ホィットマンの『草の葉』を想起させる。また、車で移動するという形は、ケルアックの『路上』を想起する。『路上』は、 1951年に書かれて、1957年に出版された。そして、『ロリータ』は1955年出版である。黄金の50年代、ダイナミックな、移動・ノマド的な文学。その時代は、ロックンロール誕生の時代であり、また、ジャズの時代でもある。また、ビートジェネレーションの興隆の時代であった。】

ロリータへの愛で痴人になっている私の状態。「彼女(ロリータ)のところへコーヒーを運び、朝のつとめを果たすまでそれに手を出させずにじらすのは、なんと楽しかったことだろう。私は、可愛らしいブルネットの小麦色の肉体のあらゆる欲求に奉仕する思慮深い友人であり、情熱的な父親であり、小児科の名医でもあった。自然の理法へのただ一つのうらみは、私がロリータの体の内部をひき出して、その若々しい子宮や、未知の心臓や青貝のような肝臓や、馬尾藻(ほんだわら)のような肺臓や、形のいい一対の腎臓などに、貪欲な唇をあてることができないことだった。」p.247
寵愛された子どもほど冷酷無慙(れいこくむざん)なものはない。私は彼女に「我が氷の王女」というあだ名をつけた。しかし、私は幸福になれなかったわけではない。
「一人のニンフェッタに取憑かれ、その奴隷となった、魅せられた旅人は、いわば幸福を遙かに越えたところにいることを、理解していただかなければならない。なぜなら、ニンフェッタを愛撫する悦楽に比較できる悦びが、他にあるはずはないからだ。その悦楽は、比較を絶するもの、次元と種類を異にした感性に属するものなのだ。彼女とのいさかい、彼女の不機嫌や仏頂面に関わりなく、また、それがいかに下劣で危険で絶望的であろうとも、私は自分の選んだ楽園にどっぷり浸った――その空は地獄の業火に彩られていたが、それでも楽園であることに変りはなかった。」p.249~250
私は後に東部のビアズリーの私立学校にロリータを入れたがそれは大きな間違いであった。「その当時、私の思考は、体の分泌腺によって、一日のうちに、何度も狂気の極点から極点へと変転した。その一端は1950年頃には、ニンフェットの魔性を喪失した扱いにくい思春期の女を、なんとか厄介払いしなければならなくなるだろうという思いであり、他の一端は、忍耐と幸運によって、その繊細な血管に私の血が流れるニンフェッタを彼女に生ませることができたら、そのロリータ二世は、1960年頃には、八つは九つになるだろう――その頃でも、私はまだ男盛りをすぎてはいないだろう、という思いであった。」p.260
「最後に金銭上の問題もあった。私の収入は、私たちの遊山旅行の負担に耐えきれなかった。・・・1947年の夏から翌年の夏までの金使いの荒かった一年の宿泊料および食費が約5,500ドル。ガソリンとオイル代および修理費が1,234ドル。その他の雑費が、ほぼ同額。従って、実際に動き回ったおよそ百五十日間、(実に約27,000マイル走破したのだ!)と、その合間に静止した二百日間とで、このつましい利子生活者は、・・・10,000ドルばかりを浪費したことになる。」
「振り返ってみると、(私たちの長い旅行は)当時すでにそれは私たち二人にとって、角の折れた地図と、破れた旅行案内書と、古タイヤと、私が寝たふりをするすぐ始まる彼女の夜ごとのすすり泣き――一夜もかかさなかった、あのすすり泣き――などの集積でしかなかった。」p.262~263
セーヤー街十四番地の家を借り、ロリータをビアズリー女学校に入れることにした。

【ロリータの学校の友達等に関するカタログ的に近い記述が出てきて退屈である。リアリズムの系譜であるが、日常的生活の記述的表現で、事細かな日常の平板な記述となっていて、冗長で退屈である。冷淡とまでは言わないとしても、平たんな叙述、感情移入の乏しい叙述である。確かに、性欲的感情はあるが、「魂」の感情はなく、冷ややかな感じがある。明らかに利己主義者の自己中心的な感情であり、そのため、内容が限定されている。
どうも人間の関係の叙述が生き生きとした感じが乏しい。感情の希薄さがある。人間のつながりが、表面的になっている。主人公ハンバートのニンフェット性欲による利己的な観察・考察が卑俗・卑小な細部を表現しているので、表現が外面的で、些末的で、共感的な感性がないので読んでいて面白みが乏しい。だから、この作品は多くの長編小説がそうであるようにもっと簡素化できるのだ。
見方を変えてみると、ナボコフは、語りがうまくないのだ。語るのではなく、独り言をつぶやいているようだ。語るのは読者を想定して、話すことであるが、この作品では、主人公の記録・記述・独語が中心であり、そのため生動生命感が希薄なのだ。バフチン的に言えば、これはモノローグ的な作品で、パラノイア的と言えよう。そう、確かに、細かな外面記述はあるが、コミュニケーション、ダイナミックな対話性、ドラマ性、生成性、流動性が乏しい。例えば、ロレンスの小説の何気ない会話のもつ臨場感と生動感と比べてみるといいだろう。ロレンス流に言えば、ナボコフには接触・触れあい・血の交流がない。感情の交流がない。明らかに、資本主義の近代自我的利己主義・自己中心主義である。利己的に閉ざされた観察・欲望自我。資本主義―近代自我の悪魔的な閉鎖的個人主義である。
また、言い換えると、生動感の快楽がないため、退屈なのだ。知識人的な文学だ。民草(タミクサとミンソウと読みたい)の文学ではない。主人公ハンバートは詩人的な感情を云々しているが、この作品には叙情性、リリシズム、歌情が欠如している。乾いている。
冷却な観察記述と「魂」感性の欠如。これは、正に近代知性でなくて、なんであろう。近代自然科学的な見方ではある。そう「魂」の体温が低いのだ。「魂」熱が足りないのだ。
主人公ハンバートのニンフェッタ性欲と彼の没共感的な、冷却した知性は、『羊たちの沈黙』のレクター博士に少し似ているし、また彼のニンフェッタ性欲は、思うに女神的な要素があり、結局、近代的な悪魔的な科学的知性と女神的な性欲が結合しているのではないだろうか。しかし、問題は、前者によって「魂」が排除されていることだろう。魂質の「魂」がなく、魂質の物質的な欲望のみが偏って発現していると思う。これは、近代自我による排除なのだ。女神的な魂質欲望は、「魂」的でコスモス的な指向をもつのであるが、ハンバートの場合、女神的な魂質欲望は、「魂」的欲望が排除されて、「物質」的な、視覚的な、外界感覚的な性欲対象に限定されていると思う。女神的な魂質欲望とは、いわば、天使的な性欲であるが(中世の神秘家ヒルデガルトはエデンの楽園では、耳目は性的器官であったと考えていたということである)、この天使的な性欲が、ハンバートの場合、ロリータへの、ニンフェッタへの、即物的な欲情に限定されてしまっていて、コスモス的な他者的な感性が排除されているのだ。ロリータ=ニンフェッタ・コンプレックスとは、天使的な性欲の近代自我的な限定と言えるのではないだろうか。
そう見ると、やはり近代自我を解体(解脱)して、個の「魂」・魂質という他者・外部を発現させることが、最重要なことと考えられる。もっとも、近代自我中心主義の解体であり、自我の解体ではない(自我の変容・新生・変態ということもできる)。自我の中から、自己・個・魂質という他者・外部を発動させるのだ。】

私は、ビアズリー女学校のプラット女史と、ドリー(ロリータ)のことで、面談した。
私が、思春期を迎えたロリータのもつべき社会的経験を奪っているのではないかということであった。ロリータは、授業で、卑猥とされる四文字語使ったということであったし、
反抗的、気むずかしくて、ずるい子と見られていた。
ロー(ロリータ)は学校で芝居の練習をしている。私は彼女にピアノを習わせた。しかし、彼女はある日さぼり、別の男と遊んでいたことが発覚した。彼女は二年の間にすっかり変わってしまった。だらしのない下品な女学生の顔色となってしまった。肌の清純な光も、下卑た赤らみ変わった。「彼女のすべては、いまいましく不可解な同根同種のものなのだ――形のいい脚の強靱な感じ、白いソックスの汚れたかかとと、部屋は暑苦しいのに脱ごうともしない厚手のセーター、いかにも女の子らしい匂い、とれわけ、異様に赤らみをおび、唇に紅をぬったばかりの顔の末端など。前歯に口紅の痕が残っていた。ぞっとするような思い出が胸を突き刺した――それはパリの娼婦モニークの面影ではなく、ずっと昔、ある淫売屋で出会ったもう一人の若い娼婦の姿だ。相手が若いというだけで、恐ろしい病気をうつされる危険を冒したものかどうか、私が迷っているうちに、ほかの男にさらわれてしまったが、・・・」p.306
彼女は自ら学校をやめると言い、また長い旅行がしたいと言い、そして今度は自分の行きたいところへ行くと言う。二人はスノーとチャンピオンの山岳地帯に入る。コロラドの保養地で行ったロリータのテニスをする姿や動作が絶品であった。ボールは「彼女の支配する霊域に入るとなぜかいっそう白くなり」、ラケットは「ボールに吸いつくように接触する瞬間、異様な補足力と、それ自体の意識をもつように思われた。」
私はつけられているという思いにとらわれたが、それは被害妄想のせいであった。
ロリータは病気になり、四十度以上の熱を出し、土地(エルフィンストン)の病院に入院した。私は、ロリータが私の絶望的な恋を裏切ろうとしていると察した。私はやけ酒を飲んだ。病院に電話すると、叔父のギュスターブが来て、ローは退院して、二人は出ていったと告げられた。私は、ここまでの道のりを考え、ローを連れて行った者の足跡を辿った。
妄執の駆られて、私はホテルの宿帳を調べて、「犯人」を探し出そうとした。「犯人」を突きとめたと思ったが、それは精神錯乱によるものであった。私は、しばらく療養所に入ることにした。そして、寂しく、誰かいたわってくれる相手が欲しかった事情から、リタが登場した。彼女は、年齢がロリータの二倍、私の四分の三だった。非常に思いやりの深い、気のいい女で、三番目の夫と離婚したばかりであったし、浮気の相手は数えきれないほどいた。
ロリータから手紙が来た。それは、彼女がリチャード・F・シラーという機械工と結婚したことが書いてあった。私はその男を殺害しようと思い、住所を調べることにした。コールモントの電話ボックスの電話帳でシラーという名前のものを調べ、親戚を見つけ、住所を聞いた。ロリータの家に辿り着き、三年ぶりに彼女と会った。「背丈が二インチほどのびて、桃色の縁の眼鏡をかけていた。髪を高く盛り上げた新しい髪型、昔は隠れていた見慣れない耳。なんというあっけなさ。私が三年間も思い描き続けたこの瞬間――その結果は、乾いた木片のようにあっけないものだった。腹があからさまに大きくふくらんでいた。」
しかし、「奇妙なことに、容色は確かに衰えたのに、彼女が、ふっくらとした鼻といい、朧(おぼろ)に煙ったような容色といい、ボッティチェリの朽葉色の髪のヴィーナスそっくりだということ、もともとそうなのだということに、なんとも手遅れな話だが、このときはっきりと気づいた。」
私に聞かれて、これまでのことを話す。彼女を連れ去ったのは、キューで、彼女にいやらしい映画に出るよう強要したので、別れ、その後、方々でアルバイトをして暮らし、そうやって夫のディックに出会ったという。
もう別人のようになったロリータ(台無しになった容姿と、縄のような血管が浮き出た、大人のか細い手と、鳥肌たった白い腕と、後ろの方へ寝た耳と、伸び放題の脇毛で、十七歳にして絶望的にやつれ果てていた。彼女は、私がかつて歓喜の叫びを上げながらその上で身もだえたあのニンフェットの、かすかな菫のような残り香、枯れ葉の下の木霊でしかなかった。)を見て、私は、これまで見、想像し、渇望した他のいかなるものにもまして彼女を愛していることを、はっきりと自覚した。(p.419)
私はロリータにもう一度戻ってくるつもりはないかと尋ねたが、その気はないと言った。私は彼女に4000ドルほど渡して、彼女夫婦の引っ越し資金を作ってやった。
私はコールモントを発ち、ラムズデイルとの中間で、私はじみじみと自分をふりかえり、
自分の実体が単純明快になった。かつて、カトリックの懺悔聴聞僧と議論したことがあり、彼や偉大な教会に感謝しているが、「悲しむべきことに、私は、いかなる魂の慰めを得ようと、いかに透かし絵のような来世を約束されようと、ロリータに注いだあの穢れた情欲だけは、どんなことをしても彼女に忘れさせることができないという簡単な人間的な事実を超越することはできなかった。ドロレス・ヘイズという北アメリカの一少女が、ある狂人によって子供時代を奪われたとしても、そんなことは究極的にはいささかも問題にならないと証明されない限り」、私は自分の苦悩を言語芸術という局部的効果しかない緩和剤によってまぎらす以外方法がない。「昔の詩人は言っている―――人間の内部にある道徳意識、それは、我ら人間の美意識に課せられた税金だ。」 p.427~428

【ここで、作者ナボコフは、自分の解説の言葉とは違って、「道徳」性を出している。
しかし、正確に言えば、ここある「私」の罪悪感は、道徳的なものと言うより、倫理的なもの、単独的な個のものである。ロリータへの性欲から、「私」の内部に彼女への「魂」の愛が生じている。ということは、異常な性欲の狂熱から、「魂愛」が生じたということであり、持論に適するように、欲望の中には「魂」の種子が入っていることになる。この一種の改心は、イギリス文学にはよく見られるものである。フィッツジェラルドの「バビロン再訪」のバブル崩壊後の主人公の改心を想起する。子供を引き取ることになる。また、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』の復讐鬼ヒースクリフが、最後、亡霊のキャサリンを見て、
一種改心して、和解してのち死んでいくことをも想起する。勿論、シェイクスピアの特徴的なパタンであるが。つまり、悪から「善」、つまり「魂」の善=倫理が生じる。もっとも、
羊たちの沈黙』のレクター博士のような悪の権化もいることは確かである。しかし、レクターでも、クラリスには支援を惜しまないところをみると、完全悪ではない。思うに、個の内部には、「魂」の種子が内在・潜在した諸欲望がカオス的に蠢いているのであり、この諸欲望の「悪」、つまり個の、単独的な「悪」を通して、「魂」の倫理が開けてくるようだ。「善」は「悪」の装いをしている? とにかく、善悪一如性があると言えよう。キリスト教のように善悪二元論は、道徳的で、倫理的ではない。
「私」の救いのない罪悪は、親鸞悪人正機説を想起する。救いようのない悪人の私であり、そのような悪人こそ仏の救済の対象であるとする。正に実存の思想・宗教だ。】

私は、ロリータの内部にあった素晴らしい領域、「庭園・薄暗がり・城門」を無視してしまった。私は、彼女にとってボーイフレンドでも、魅惑的な男でも友達でも、一個の人間ですらなく、ただ二つの目と赤く充血して一本の肉の足に過ぎないのであった。
「私はおまえを愛していた。私は五足の怪物だが、おまえを愛していた。・・・天国のなかの氷山ともいうべき瞬間もあった。私は彼女を満喫した後――ぐったりとし、肌が青ざめてまだらになるほどはげしい気違いじみた力闘の後――やっと人間らしい優しさを込めた無言の呻きをもらしながら彼女を腕に抱いた。」やがて、ロリータを抱いて、彼女の祝福を求め、人間らしい苦悶に満ちた献身的な情愛が頂点に達すると、皮肉にも、突如として欲情が再び猛然といきりたった。【思うに、この小説は、ある意味で、ルイス・キャロルナボコフに転生して、主人公になって、ロリータとしてアリスを犯したという風に、かなりグロテスクな想像ではあるが、考えられないことはないだろう。】
 たぐいまれなロリータ式微笑の主要な特徴はというと、顔には柔和な、甘美な、えくぼを伴った明るい微笑が戯れたが、それは決して部屋の客の方へは向けられず、いわば、それ自身の遠い華やかな真空の中に漂っていた。【ここでも、ロリータの天使・女神性を見ることができよう。前にはロリータは、ボッティチェリのヴィーナスに似ていると書かれていた。ロリータの性愛は、天使・女神的エロスであろう。】
私は後年精神療法医から、子供時代のことをふりかえるように言われ、ふりかえったものの普通ある母への憧憬の瞬間はなかった。母が落雷で死んだとき私は幼児だった。
【『羊たちの沈黙』の女性の皮を剥ぐバッファロウ・ビルは、この「私」と同様に、母親が幼いときに死んだのだ。どうも、母親との接触の欠乏が、女性への猟奇的な犯罪を生む衝動の要因の一つなのかもしれないと思う。】
「・・・この問題全般を通じて最も恐ろしい点は次のような事実だ。すなわち、私たちの異常で獣的な同棲生活が続けられるうちに、最も悲惨な家庭生活ですら、結局のところ私があの孤児に与えうる最善のもの――近親相姦のまねごと――よりはましだということが、因習的なロリータに、だんだんはっきりわかってきたことだ。」p.434
私は、ロリータを奪っていった男クレア・キルティを殺すため、ラムズデイルを再訪した後、ペイヴァー屋敷に到着した。私は拳銃を取り出し、クレアと格闘した。命乞いをするクレアを拳銃で冷酷に撃ち、彼は死ぬ。
私は、車で逃走するが、道路の反対側を走り、警察に追いかけられ、捕まる。
以前、ロリータが失踪して間もない頃、ハイウェイの断崖の花崗岩の手すりのところで、下方の街路から遊び戯れる子供たちの美しい調べが聞こえてきたことを想起する。
そこにロリータの声が交じっていないので、絶望的な悲哀を感じた。(了)

cf.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BF



羊たちの沈黙(1988年) トマス・ハリス作(菊池光訳 新潮文庫

FBIの行動科学課の訓練生クラリススターリングが、所長のジャック・クローフォドに依頼され、監房に入っているハニバル・レクター博士(人食い《ザ・カニバル》ハニバル)の調査書を作成するように頼まれる。そのとき、レクター博士から、ラスペイルの車の中を調べるように言われ、調べている。車の中には、ヴァレンタインのしるしのあるアルバムとマネキンがあった。また研究室用の大きな標本瓶に人間の頭が入っていた。
クラリスは、レクター博士と話をする。標本瓶の頭は、ラスペイルのゲイの恋人で、スェーデン人クラウスのものだと言う。レクター博士クラリスの手助けをしたのは、クローフォドと取引したいからで、人間の皮を剥ぐバッファロゥ・ビルのことについて教えることができると言う。
クラスの仲間から離されたクラリスに、射撃教官のブリガムが、ジャック・クローフォドといっしょにバッファロゥ・ビル−タイプ(人間の皮を剥ぐタイプ)の死体の調査に出かける任務を伝えた。ブリガムは、車でクラリススターリングを、クワンティコの飛行場に連れて行った。そこでは、古い双発のビーチクラフト、「ブルー・カヌー」がクローフォドを乗せて待っていた。
バッファロゥ・ビルに関するファイルを飛行機の中で、クラリスは読む。白人女性ばかりを狙った、皮を剥ぐ犯罪で、おそらく犯人は白人男性である。少なくとも五回の犯罪歴があり、死体は、いずれの場合も流水に投げ込んでいる。それぞれ異なった州の別の川で州間高速道の交差点の下流で死体が発見されている。バッファロゥ・ビルは各地を移動する男である。双発機は、ウェスト・ヴァージニア州ポターへ向かう。
【人間の皮を剥ぐこと、女性が犠牲者であること、死体が川に投げ込まれること、各地を移動していること等から、予感できるのは、これは、一種宗教的な儀式・儀礼のようなものではないかということである。そう、アメリカの自然・大地へ犠牲を捧げること、供儀ということなのだろうか。また、レクター博士の犯罪も不気味である。そう、思うに、皮を剥ぐというのは、「魂」や生命の器を破壊するということではないだろうか。
ならば、それにより、「魂」・生命を解放する行為ということになろうし、正に儀礼となろう。アメリカの自然への「魂」・生命を捧げること、なにかアステカの宗教儀式を想起する。】
ポター葬儀場は、ランキン郡の死体保管所で、そこで、クラリスは、犠牲者の検査を行う。
「・・・この被害者が誰であれ、どこから来たにせよ、川が彼女をこの土地に運んできたのであり、この土地のこの部屋に救いなく横たわっている間、クラリススターリングと彼女の間には特別な繋がりが存在するのだ。ここではスターリングは、土地の産婆、知恵者の女、薬草医、常に必要なことを果たしてきた女、絶えず監視役を務め、その役が終わると、土地の死人の体を洗い身なりを整えてやる女の後継者なのだ。」122〜123頁
クラリスは、メディスン・ウマンだ。土着的女神的な存在、魔女的存在。女性指導者的な存在だ。それも、モダンのシャープな即物的な知覚をもった存在、近代科学を身につけた存在だ。「神秘・神話」と近代科学の結合だ。)
スターリングは、死体の指紋や写真をとったりして検屍を終える。六番目の被害者は白人女性、二十歳前か二十代初め、射殺、胴体下部と腿剥皮(ももはくひ)で頭皮を剥がれた最初の被害者、両肩の後ろから三角形に皮を取られた最初の被害者、胸を撃たれた初めてで、喉の奥に繭があったのも初めてである。
クラリススターリングは、スミソニアン国立自然史博物館へ行き、被害者ののどに入っていた虫の繭について、ピルチャーとロゥドンに検査してもらう。それは、蛾のエレブス・オドラ(クロエレブスオオヤガ)で、フロリダ最南端とテキサス南部で年に二度、五月と八月に産卵することがわかった。帰り際、ピルチャーはこの事件が解決した後、クラリスに食事をしようと誘った。
上院議員のルース・マーティンの一人娘キャザリン・ベイカー・マーティンが襲われ誘拐される事件が起る。ブラウスが切り裂かれていた。
六番目の事件で、死体保管場での検死の経験が、クラリスに衝撃を与え、精神に地殻変動を起こしている。クローフォドから電話があり、スミソニアン自然史博物館に行くように言われる。クラスメートのマップは、クローフォドに刑法の試験に関して手配してくれるよう頼むように勧める。
クラリススターリングは、スミソニアン自然史博物館に行き、クローフォドと落ち合い、標本瓶に入っていたクラウスの首が作業台に載っていた。クラウスの喉からも虫が見つかったのだった。このため、クラリスは、再度レクター博士に会うことになった。

ジェイム・ガムは、女性ホルモンを使って女性になろうとしているが、未だ男性的な攻撃性があるように見える。彼は、トレイを三つ地下室にもっていき、そこにある涸れ井戸の中に、骨と野菜くずを投げ捨てた。その井戸からは「おねがい」という叫び声がした。

クラリスは、ボルティモア精神異常犯罪者用州立病院に入り、レクター博士と話をする。監房では、サミーという分裂病者が新たに収監されている。博士はバッファロゥ・ビルがサディストではない理由として、どの死体にも縛り傷が手首だけについていて、足首にないことをあげている。サディストなら、楽しみながら皮を剥ぐ時は、被害者を逆さ吊りにしてするものだと言う。クラリスの子供時代の最悪の記憶と引き換えに、博士はバッファロゥ・ビルが、キャザリン・ベイカー・マーティンを誘拐した理由を告げる。それは、彼は乳房のついたチョッキが欲しいからということであった。
クラリスは、上院議員マーティンの取引を携えて、レクター博士に会う。博士は、蛹の話を始めた:蝶や蛾の幼虫は美しい成虫(イマーゴゥ)になる。イマーゴゥという言葉は、幼児期から意識下に埋め込まれ、幼児期の感情に包み込まれた両親のイメージだと言う。
蛹のもつ重要な意味は変化だ。ビリイ(バッファロゥ・ビルを今はこう呼ぶ)は自分も変化したいと思っている。彼は本物の若い女の皮膚を生地にして、若い女性用の服を作っている。ビリイは真の性転換願望者ではない。博士はクラリスに性転換願望者とそうでない者の区別のしたかを教える。
レクター博士クラリスにジェイム・ガムを引き渡す方法について考えを巡らせている。ラスペイルの語るところでは、ジェイムは本当のゲイではなく、実際のところ、無に近い人間であって、全くの空虚を充たしたがっていた。あるとき、前の雇い主の郵便物を受け取り、小包の中に死んだ蝶が詰まっていて、スーツケースの中から、一匹の蝶が蛹から孵り、飛んでいった。それを見たジェイムは何をなすべきか閃いた。
チルトン博士が、レクター博士の監房の寝台に腰かけて、レクター博士と精神医学資料保管所との間の一番新しい往復文書を読み終える。チルトン博士は、レクターをクローフォドやクラリスが騙すであろうことを執拗に告げる。
ジャック・クローフォドは、ジョンズ・ホプキンズ大学の性同一化科長のダニエルソン博士に、ここで申請を拒否されたものの資料を見せてもらいたいと懇願するが、厳しく断られている。
チルトン博士がこの事件に首を突っ込み、マーティン上院議員が直接介入し始めた。ハニバル・レクター博士テネシー州に引き渡されることになった。
レクター博士は、マーティン上院議員に、バッファロゥ・ビルに関する情報を知らせる。
本名は、ウィリアム・ルービンで、通称ビリイ・ルービンであること等。
ジェイム・ガムは地下室で飼っている蛾が成虫になるのを見ている。「檻に光線を戻したのがちょうど間に合った。大きな昆虫の羽が背中の上方にあって、模様を隠したり歪めたりしている。今度は羽をおろして体を包むと、あの有名な模様がはっきりと見える。毛皮のような鱗粉で見事に造り出された人間の頭蓋骨が蛾の背中でこちらを見ている。陰になった頭蓋骨のてっぺんの下に黒い眼窩と突出した頬骨がある。その下方で黒い部分が顎の上辺りをさるぐつわのように横切っている。頭蓋骨は、骨盤のてっぺんのように広がった模様の上にのっている。骨盤の上にのった髑髏、すべて自然の偶然によって蛾の背中に描かれている。ミスタ・ガムはたいへん気分がよく、心が軽くなったような気がした。」p. 288
獲物のキャザリンをやるのは明日か明後日である。【ここの頭蓋骨のある蛾とは、ミスタ・ガムにとって、自由と皮剥の二重性を象徴していると見ることができよう。そう、神秘学的に言えば、ガムにとって女性の皮・皮膚を着るとは、生まれ変わることを意味しているのだろう。あるいは、女性に生成変化することを意味しよう。それは、また成虫になることだから、通過儀礼であろう。思うに、女性の皮・皮膚を剥ぐことは、女性の「魂」・生命を取り出すことであり、また剥いだ皮・皮膚を着けることは、自己成就なのであり、それは、女性へと変身することだ。つまり、脱皮と成人儀式の両面を女性の皮剥ぎは意味しているのだろう。死と再生の儀式だ。】
クラリスは、キャザリン・ベイカー・マーティンの住んでいたアパートメントに行き、調べることにした。宝石箱の引き出しの裏に、茶封筒に写真が五枚入っていた。それは、セックスしている時の写真であるが、頭や顔は写っていなかったが、女性が大柄であることから、キャザリンのものであろうと考えた。そのとき、マーティン上院議員が入ってきて、その写真を取り上げた。司法省のクレンドラーが、この事件とはもう関わりはないのだから、クワンティコの学校に帰るように、クラリスを見下して言った。
レクター博士が新たに収監されているメンフィスの古い裁判所へクラリスはやって来た。
レクター博士クラリスに彼女が子供の頃のことを話させると、クラリスは父が亡くなり、母がモンタナの従姉妹夫婦に彼女をあずけたことを告げ、ある早朝子羊たちが屠殺のため悲鳴を聞こえ目が覚め、目の悪い馬を連れ出したことを語った。
ペンブリイとボイル両係官(矯正官)が、レクター博士を担当しているが、食事を与えるときは、拘束服を着せないで手錠を格子の外に出させるが、レクター博士は隠しておいたボールペンのプラスティックの軸にクリップを差し込んだ簡易鍵を指の間から出して手錠の鍵を開けて、ボイルに手錠をはめ、そしてペンブリイに襲いかかって棍棒で殴り殺し、その後、ボイルを撲殺した。引き出しに拳銃が二挺あり、ボイルのポケットにポケット・ナイフがあった。
テイト巡査部長が、交代のため確認しようとしたが、ボイルとペンブリイはまだ下りて来ていない。銃声がして監房に行くと、二人は無惨な状態で横たわっていた。ボイルは即死だが、ペンブリイは息をしていた。エレベーターの天井から血が滴り落ちたので、犯人はエレベーターの屋根にいるということで慎重・厳重に探ったが、それは実はペンブリイであった。
ペンブリイ、実はレクター博士を乗せた救急車は、救急係がレクターに襲われて、メンフィス国際空港に向かった。
クラリスは、特別休暇を命令されたクローフォドの自宅に行き、レクターの逃亡について説明を受けた。レクターはペンブリイの制服とペンブリイの顔の一部を着けていた。それにボイルの肉を一ポンドほど。またクレンドラーが、クラリスを職務遂行能力審査会にかけるよう訴えたことをクローフォドは告げた。
クラリススミソニアン自然史博物館の昆虫館に行き、ピルチャーからクラウスの喉に入っていた繭が確認されたことを告げられる。それは、ドクロメンガタスズメで、学名はアケロンティア・ステュクスで地獄の二つの川の名前から取ったもので、マレイシア種であることがわかった。
キャザリンは、地下室の土牢から脱出しようと試みるがうまくいかない。
ハニバル・レクター博士は、セント・ルイスのマーカス・ホテルに泊まる。ホテルの部屋から、通りの向こうに、セント・ルイス私立病院のマイロン・サディ・フライシャー記念病棟が見える。頭蓋と顔の手術に関する世界一流のセンターの一つである。
アーディリア・マップはクラリスに審査会の勝ってほしいと言う。
クローフォドの妻が亡くなる。
ジェイム・ガムは、地下室で、キャザリンを殺して、母の相当する皮膚=服を作ろうと精緻にデザインし努力している。
クラリスは、マーティン上院議員の侮辱に胸を痛めていた。ブルジョワ的なものに対するクラリスの階級的反感があった。クラリスレクター博士の言葉を想起して、最初の被害者について探索することの許可をクローフォドに頼み、彼は、それを認めた。
ダムは、四日目の朝、準備を整えてキャザリンを殺そうとしているが、飼っている子犬がいないことに気づいた。犬は、キャザリンが地下室から投げたバケツが開口部から出他後、その中に入り込んで、バケツと伴に地下室に落ちていったのであった。キャザリンは、
犬を殺すと脅して、電話を降ろすようにダムに要求した。
クラリスは、最初の被害者のフレドリカ・ビンメルの自宅を訪ねた。
クローフォドは、FBI本部のオフィスに行き、ダニエルスン博士からの電話で、ジョン・グラントとして、性転換手術を申請した男は経歴チェックでひっかかり、調べた結果、グラントという名前ではなく、ジェイム・ガムであった。
クラリスは、フレドリカの部屋で、手掛かりになそうなものを探している。戸棚を見つめて、犠牲者キンバリーの背中の肩の部分が三角形に切り取られているのを思い出していると、その三角形がドレスの型紙に青い点線で示してあるのを見た。
「――あれはダーツだ、彼は彼女の腰回りを広げるためのダーツを作るのにあの三角の皮膚を取ったのだ。あの畜生野郎は裁縫ができる。バッファロゥ・ビルは本職の裁縫の訓練を受けている、彼は単に既製品を選んでいるのではない。」
ビンメルの家で、スターリングにジェリイ・バロゥズから電話がかかってきた。ダムが裁縫ができることをジェリイに伝える。ジェリイは、犯人として大いに可能性のある人物を発見したことをスターリングに伝える。その名前は、ジェイム・ダムで、別名ジョン・グラントである。場所はシカゴの端のカリュメット市だ。
クラリスは、フレドリカの親友のステイシイ・ハブカを訪ねる。
特別機動部隊の乗ったジェット機イリノイ州カリュメットを目指して飛んでいる。
ミスター・ガムは、地下室のキャザリンを撃ち殺すため、近づいたとき、ドアベルが鳴ったので、表の様子を見に行く。クラリススターリングがやってきた。中に入り、クラリスは、機会を見つけ、ガムを逮捕すると告げた。ガムは部屋から出ていった。クラリスは追うが、照明が消えた。ガムがブレーカーを切ったのだ。彼は赤外線をクラリスにあて、回転拳銃パイソンの撃鉄をカチッと起こした瞬間、体が仰向けに床にぶつかった。ガムは、クラリスに胸を撃たれて死んだ。その後、消防署員が来て、地下室のキャザリンを救出した。
ワシントンのナショナル空港に出迎えの人々が五十人ほどいた。飛行機から降りてくるクラリスを、アーディリア・マップが見つけ、ジェフが運転するヴァンに二人は乗ってクワンティコに向かった。
ジャック・クローフォドは、クワンティコのオフィスに行き、クラリスと会う。ジェイム・ガムの死亡とキャザリンの救出のニュースが流れている。連邦検事がクラリスの宣誓証書をジャックがもってきた。クラリスはフレドリカ・ビンメルの家からステイシイ・ハブカのところへ行き、さらに、ビンメルが下請けをしていた店、リチャーズ・ファッションズのバーディンという女のところへ行って、ミセズ・バーディンがミセズ・リップマンの古い住所、あの建物を教えてくれたというわけであった。ジャックは、クラリスを誇りに思うと堅苦しく言った。
ジェイム・ガムに関するニュースが頻繁に流れた。彼は母親に捨てられ、孤児院に入れられたが、その後祖父母が引き取った。その二年後彼は殺人を犯した。ラスペイルと出会い、その後ラスペイルの愛人クラウスを殺し、皮を剥いだ。それからラスペイルがガムをレクター博士に紹介した。ラスペイルの最後の治療の録音があった。その後レクターはラスペイルを殺した。ジェイムは、一緒に行ったフロリダの旅先でミセズ・リップマンが亡くなると、彼女の全財産―居住部分、店、地下室のある古い家―を相続したのであった。
クラリスは、スミソニアン自然史博物館の昆虫担当のピルチャーの自宅に招待された。
レクター博士はマーカス・ホテルに滞在し、上機嫌である。すでに準備してある南米に逃亡する予定である。レクターはクラリスに手紙を書く。子羊の悲鳴は止んだか答えてほしいと書いてある。その時、クラリスは、チェサピークのキルチャーの家でベッドの中で寝ていた。天空にはオリオン座とそのそばに強く輝く木星があった。

cf.
http://www.kabasawa.jp/eiga/page/book2.htm



[叡智学] 人間の暴力の源泉、民主主義の源泉について:ギリシアキリスト教、日本?


[叡智学] 人間の暴力の源泉

 暴力を受けた人間は、暴力を行使した人間に憎悪や反感を抱くのは自然の情である。しかし、その情念を恨みとして、根づかせるのか、それとも、別様の積極的肯定的強度的概念によって乗り越えるのかが、人間のあり方の分岐点である。
 さて、ここでは、人間の言語習得のあり方を考えたい。私は、これは二通りあると思う。一つは、父権的言語形成であり、一つは母権的言語形成である。前者は、イデア界的強度の否定的反動暴力をもっている。後者は、いわば前近代主義的な言語であり、いわばアニミズム的な言語である。「豊葦原の水穂の国は、昼は五月蝿なす水沸き、夜は火瓮なす光く神あり、石ね・木立・青水沫も事問ひて荒ぶる国なり」
http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/kanyogoto.html
http://www-user.interq.or.jp/~fuushi/5-anc/siryou/g-kamuyogoto1.htm
という言語観であろう。母権神話、ファンタジー、民話、詩の言語であろう。
 父権的言語であるが、これは、超越神的な言語であり、反動的言語である。つまり、根源のイデア界の強度を反動化させているのであり、差異共存ではなくて、差異否定型の、同一性の言語である。自我の言語、自己中心主義の言語である。父権神話の言語である。(ロゴスであるが、これは、本来、イデア界を指すものであったのだろうが、それが、超越的言語に取り込まれてしまったのだろう。つまり、内在的ロゴスが、超越的ロゴスにされてしまった。)父権的言語は自己中心的、独断・独善・偽善・欺瞞・イデオロギー・狂信傾向的である。(ブッシュ、小泉、キム&エビ・ジョンイル他を見よ!)
 ということで、近代化において、前者、母権的言語が否定されて、父権的言語、近代合理主義的言語が中心となり、人間、社会に暴力が内在化されるのである。自我、知覚、意識、言語が、暴力的になっているのである。つまり、本源的な母権的言語を棄却・否定するという反動暴力が基礎にあるのである。結局、この父権的暴力言語によって、人間は、暴力的存在となっているのである。だから、棄却されている母権的言語を新生させないといけない。これを能動的に肯定的に把握することで、反感、憎悪、嫌悪等の否定的感情・観念は行為化されずに、鎮静化するだろう。たとえば、奈良女児誘拐殺害事件であるが、容疑者は、ルサンチマンの虜になり、母権的言語を能動・積極的に形成できなかったのではないだろうか。少女を対象とするというのは、無防備な弱者を狙うということではあるが、それとは別に、そこには、否定された母権的言語があるように思う。あるいは、否定されたままの、イデア界、差異共創存界、母権的多神教があると思う。

p.s. この犯罪については、稿を改めて検討したい。



[叡智学] 民主主義の源泉について:ギリシアキリスト教、日本?

 周知のフランス革命のスローガン、自由・平等・博愛であるが、それ以前、アメリカ独立革命があった。「神がわれわれを平等に創造した」。フランスの民主主義とアメリカの民主主義。ここで、不連続的差異論から、民主主義を見るならば、それは、正に、永遠のイデア界の強度から発しているだろう。差異共存だけでなく、差異共創造性、つまり、差異共創存性をもっている永遠の生成のイデア界の強度から、民主主義は発している。だから、民主主義の源泉は古代ギリシア文化にあると言うべきだろう。単に、貴族的な直接民主制から発したというだけでなく。つまり、イデア界的民主主義は、本来貴族だけでなく、一人ひとりの人間に内在し、現前化するものだからである。
 では、キリスト教はどう関係するのだろうか。よく神の下の平等と言われるが、アメリカの独立宣言にあるものである。源泉は新約であろう。信仰に基づく平等である。ここに、キリスト教的平等の限定があるだろう。クリスチャンでないものは、平等観念が適用されないのだろう。つまり、キリスト教中心主義的平等観であり、異教徒には適用されないということだろう。(だから、イラク侵攻で、イラク民間人を殺戮しても平気なのだし、広島・長崎に原爆を落としても、自由社会の勝利のための必要として、捉えられてしまうのだろう。)このような限定・限界をアメリカ民主主義はもっているが、根本的にキリスト教的民主主義とは何かということも、問題である。これは、ヨハネ黙示録にあるように、クリスチャンは選民である善人である。つまり、異教徒に対して、優越した位階にあるのである。つまり、キリスト教思想は、平等思想とは言え、ヒエラルキー(位階・差別観)のある思想であり、矛盾しているのである。キリスト教徒同士ならば、平等であるが、異教徒に対しては、選民である優越性・優位に立つのである。だから、キリスト教的民主主義(そういうものがあるとするなら)とは、いささか問題の大きいものである。つまり、普遍的ではないのである。ということで、このようないわば限定された民主主義は、現代にはそぐわないのであって、脱キリスト教的民主主義として、普遍的民主主義に立つべきであり、それは、イデア界ないし不連続的差異論から根拠づけられるのである。つまり、アメリカ民主主義は古くなっている、誤っているということである。イデア界的普遍民主主義であり、ここでは、脱国家主義である。
 さて、日本であるが、私見では、日本多神教による、プリミティブな民主主義があったと思う。それはいわば自然発生的だろう。縄文文化がもっている民主主義だと思う。多神教民主主義と言ってもいいだろう。ここでは詳述する余裕がないので、簡単に触れると、歴史学者網野善彦氏の『無縁・公界・楽』他にある、脱領土化された民衆の差異共存ないし差異共創存体、あるいは、江戸時代の「連」という差異共創存体(田中優子)、あるいは、権藤成卿の古代民衆自治体(勿論、天皇制を差し引く)等に、残像が見られると考えているのである。