存在、機械、イデア:生の忘却に対抗して 

[歴史][叡智学] 存在、機械、イデア:生の忘却に対抗して

 フェリックス・ガタリは、構造主義に対抗して、独特の「機械」という概念を設けた。そして、ジル・ドゥルーズは差異という概念で、構造に対抗しようとした。しかし、歴史、存在を考えると、前者がより明確に指向し、後者は、それから目をそらし、いわば形而上学になるような指向性をもつように思える。ハイデッガーの存在は存在者の歴史に関わっているということである(オスカー・ベッカー)。
 私は共感性を言い続けてきたが、これは、イデア界に接していると考えている。そして、イデア界は永遠である。それは、正義の本源である。プラトンは真善美のイデアを説いた。当然、ここは、歴史を問題とするのである。だから、イデア界とはハイデッガーの存在と通じるだろうし、イデア・差異は、歴史に関わると言えよう。思うに、イデア界とは、差異の共存する場であり、当然、共存という正義がある。また、共創造という動きもあるだろう。つまり、差異共創存の場としてのイデア界である。この「宇宙」的「民主主義」は、正義を指向し、その強度をもつ。だから、歴史の忘却とはありえないのである。しかし、後ろ向きだけに限定されるのは誤りである。歴史は未来志向である。未来の広場に開かれている。未来の差異共創存の世界に開かれている。ユートピアというよりは、イデア界的共創存の未来である。
 ガタリの機械とは、不連続的差異論のイデア界的共創存性と通じるだろう。共創存という機械である。内在的に他者と共創存形成・交通するのである。ここは、脱領土化された領域である。民人と民人が出会うのである。


[歴史][文化] 日本人の自己忘却:日本の大汚点

ハイデッガー存在忘却に倣って言えば、日本人は、己の存在を忘却しているし、それは忘却させられているのだろう。歴史・文化、朝鮮支配の歴史、満州国の建設、大東亜共栄圏、・・・。また、東洋文化の伝統・・・。ニーチェの用語で言えば、ディオニュソス的な過去、歴史・文化・伝統、暗黒の伝統、闇があるが、それを棄却して、無視して、西洋のアポロ的文化の「光」に目をくらまされているということだろう。いわば、前科者なのだ。その過去に目をつむっている。棄却している。しかし、歴史は永遠の歴史である。残るのである。

p.s. 日本人の目をくらませて、日本人の労働の成果を横取りしているものたちがいるということでもある。