聖書が悪魔崇拝者によって書かれたという根拠、その他

[宗教][総合] 聖書が悪魔崇拝者によって書かれたという根拠、その他

「阿修羅」の投稿から
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/860.html
http://www.asyura.com/sora/bd16/msg/587.html

「あっしらさん」の投稿リスト
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/864.html

スマトラ沖地震関連
http://www.asyura2.com/0403/jisin11/index.html



[宗教][叡智学] イエス・キリストを救う:自然と人間の共創存主義

おそらく、キリストの救済は、D.H.ロレンスが『逃げた雄鳥(死んだ男)』で表現したように、キリストをオシリスとして復活させることにあるように思われる。つまり、母権・女神神話の一環として、キリスト/オシリスとして復活させることである。日本でいうと、折口信夫の『死者の書』の大津皇子のようにである。女神の子、夫、恋人として、キリストを新生させることである。これは何を意味しているのか。これは、カオスモスイデア界=多神教の新生であろう。新ヤオヨロズの神の誕生である。これは、強度の復活であり、民主主義の新生であり、政治主体的国民主権の再生であり、差異共創存主義経済への進展であり、自然と人間との新しい共創存である。



[政治][社会] 政治主体的国民主権

私は社会学政治学等に詳しくないので、よくわからないが、わたしなりに考えたい。民主主義とは、国民、あるいは、人間一人一人の権利を認めるものだろう。それが国民主権だろう。そして、そこには、政治の権利もあるだろうが、それを代議制、間接民主制で実現しようとするのだろう。しかし、すべて、代議制に委任しているわけではないだろう。国民、民衆に、政治的主体性を認めているのだろう。ならば、国民一人一人、政治的主体として、自覚すべきであろう。つまり、国民は政治的主体であるが、制度上、代議制となって、国会を通じて、国家権力を形成するが、政治的主体性を渡しているわけではない。だから、政治家や官僚・役人が主人公ではないのだ。かれらは国民の雇われ人に過ぎない。問題は、国民一人一人の政治的主体性の強度である。ここに真の民主主義があるだろう。一人一人が強度ある政治主体でなくてはならない。ということで、雑ぱく、粗略であるが、政治主体的国民主権を言いたい。

cf. フーコーのパレーシア
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9606nh.htm
http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3ff5a46c3138a0101b42?aid=p-inaba3302385&bibid=02217700&volno=0000

p.s. スピノザの政治論にこのような考え方があるのではなかったか。



[社会][文化][経済] 日本のアニメの危機

イギリスのデイリー・テレグラフが伝えている。「なぜ、日本のアニメは神隠しに会っているのか」と機知のある見出しを付けている。
日本国民が目を覚まさないといけないだろう。政治家には期待できない。差異共創存主義経済である。
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2004/12/31/bfanim31.xml
http://www.telegraph.co.uk



[文化] 西欧の二つの異質な文化について:古代ギリシアキリスト教

父権文化と母権文化(女神の文化)



[社会] 奈良女児誘拐殺害について:『ロリータ』と『羊たちの沈黙』他

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20050102k0000m040050000c.html
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20050101i101.htm
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20041231i101.htm
http://news.google.co.jp/nwshp?hl=ja&gl=jp&ncl=http://www.yomiuri.co.jp/main/news/20050101it11.htm

この事件を不連続的差異論の視点から考察したいと思っている