「差異共創存主義へ向けて」、「イエス・キリストとは何か:不連続的

[経済] 差異共存主義経済と資本主義経済:差異共創存主義経済へ向けて

 キリスト教文化は資本主義経済を形成してきた。そして、今や大反動である。結局、資本主義は、いわば爛熟して(いわゆるアメリカ中心的グローバリズムで)、新しい経済システムを要求しているだろう。これまでの検討・考察から、差異共存主義経済(差異保存/共存主義経済)が見えてきたが、それは、イスラーム経済において表現されているものと関係するだろう。無利子銀行とか。(地域通貨は、ほんとうに超マイナーな私的な関係では機能するだろうし、せいぜい資本主義における地域的応急措置ではないだろうか。ゲゼルは、減価通貨を、国家レベルで発行することを考えていただろう。)とまれ、差異共存主義経済とは、イスラーム経済とは一致するわけではないものの、その差異共存性を取り入れて、資本主義を変容させるのではないだろうか。また、シュンペーターケインズ、ゲゼル他からも学ぶだろう。
 とまれ、差異共存主義経済は、不連続的差異論をベースにして、多種多様に展開するものである。たぶん、現実的には、資本主義/差異共存主義の混成となるだろう。不連続的差異論的差異共存主義とは、本源的民主主義であり、いわば差異民主主義的共存体経済である。

p.s. 差異共存主義経済は、社会主義でもないだろう。それは、差異保存と共存を同時に指向する経済だからだ、自己保存中心主義は資本主義であり、共存中心主義は社会主義である。しかし、差異共存主義は差異保存/共存主義であり、これは自己保存と他者共存とが不可分である強度を原基にもつ根源的理論であるから、やはり、社会主義とは異なる命名が必要だろう。非資本主義、非社会主義である。いちおう、不連続的差異的共保存主義とでも呼ぼう。簡略して、差異共保存主義である。

p.p.s. 共保存主義では、なにか保守的であり、革新・創造性が乏しいだろう。共創造共保存主義だろう。共創共存主義だろう。共創存主義である。ということで、差異共創存主義ということにしよう、とりあえず。

3p.s. 大岡信氏らの連詩とは、文学の差異共創存主義であろう。日本の伝統には、「連」(田中優子)があった。これは歴史学者網野善彦氏の『無縁・公界・楽』他と通じるだろう。

http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0025320/top.html
http://lian.webup.co.jp/twin/
http://www.asahi-net.or.jp/~eh6k-ymgs/book/nihonshi/amino.htm


[宗教][叡智学] イエス・キリストと反動的連続的同一化

 丁寧に、つまり精緻に論じよう。観点は不連続的差異論である。ここに基本構成を図示する。



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イデア界  | メディア界  | 現象界
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  1[不連続的差異・多] 2[連続的差異・一]



 さて、この連続的同一化であるが、ここには、二種類の原分節がある。一つは客観的原分節と、一つは主観的原分節である。前者は、いわゆる客体を形成するものであり、後者は、主体、意識を形成するものである。だから、それぞれ、原客体、原主体と呼んでもいいだろう。ヤハウェの場合は、両者を基礎にして、客体、主体を形成する。そして、主体は、1を否定・棄却した個体意識・「自我」となるだろう。つまり、反動的「自我」、反動的連続的同一的個体意識である。これで、ヤハウェの場合は留めよう。
 次に、イエス・キリストの場合であるが、ヤハウェは超越神であった。だから、そのときの「自我」とは、超越的意識をもっている(ユダヤ教段階か?)。つまり、超越意識的「自我」である。しかし、イエス・キリストの場合は、超越神が人間化・現象化するのである。これは、超越性が一種内在化することだろう。いわば、内在的超越性ないし内在的超越体としてのイエス・キリストである。これはどういうことを意味しているのだろうか。つまり、超越性を連続的同一的個体意識に内包、包摂、吸収するということではないだろうか。ということは、神人(イエス・キリスト)の人神化であろう。人が神を吸収してしまうことではないだろうか。(ここでは、論理だけを見ている。)ヤハウェの段階において、連続的同一的個体意識は発生していたが、それが、イエス・キリストにおいて完成する、完璧化するということではないだろうか。つまり、反動暴力的「自我」が、イエス・キリストにおいて完成するということではないだろうか。これは反動暴力的超越神の人間化であり、そのような反動暴力的人神化ではないだろうか。つまり、人間が地上の、現象界の超越神となったということではないだろうか。もし、悪魔・悪が、反動暴力的超越性=連続的同一化にあるとしたら、その究極的帰結であるイエス・キリストとは、悪魔以上の存在、超悪魔でなくてなんであろうか。これが私の結論である。つまり、反動的超越性=連続的同一化とは、現象化の動きのことである。この現象化の帰結、最果てが、イエス・キリストであると考えられるということであり、これは、イデア界から見れば、正反対の極点、対蹠点である。結局、西洋文化とは、キリスト教文化ということであり、プラトン的文化は別なのであると思う。西欧文化とは、キリスト教文化(文明)とプラトン的文化の二つがあるが、両者異質なものであって、前者が後者を「誤読」して、利用していると思う。
 最後に、中沢新一氏のキリスト教=資本主義論であるが、これに賛成する。では、ポスト・キリスト教とは、当然、ポスト資本主義であり、それは、差異共存主義=新民主社会主義経済であろう。

p.s. 神話学者ジョセフ・キャンベルが述べる、西欧文化における父権神話と母権神話の対立であるが、母権神話、女神の文化(魔女の文化を含めて)とは、プラトン的文化に入れられるだろう。神秘主義もそうだろう。すると、西欧の個人主義、民主主義、自由の概念の出自はどこかということになろう。常識的には、西欧文化の柱はキリスト教古代ギリシア文化(とりわけ、プラトニズム)であるが、それらは異質である。民主主義の出自は? 個人主義の出自は? 今、直感的には、後者であるが、後ほど検討しよう。

p.p.s. 図の注
メディア界は、虚軸とも言えるかもしれない。それは、イデア界と現象界との中間領域であり、蝶番であり、両義的で、ゆらいでいる。神話、宗教等では、ヘルメス神、伏儀と女媧、道祖神、陰陽、対極性、相補性等と表象されるだろう。思うに、量子力学の粒子と波動との相補性であるが、それは、本体・本源・根源のイデア界の表現ではなくて、メディア界の表象ではないだろうか。この点は後で検討。

3p.s. わかりやすく言えば、 ヤハウェ段階とは、「自我」、個体が超越神の下に存するのに対して、キリスト段階とは、「自我」、個体が超越神を内在して、いわば一体となるのであろう。神人→人神である。これは、超越的人神だから、究極的エゴイズムではなくて何であろうか。

4p.s. 偶然に「阿修羅」を覗いたら私見キリスト教観とつながる記事を見つけた。『「聖書」が“悪魔崇拝者”によって書かれたこと』が説かれている。
http://www.asyura.com/sora/bd16/msg/691.html
http://www.asyura.com/sora/dispute1/msg/118.html