一神教としてのキリスト教の検討

[宗教][叡智学] 不連続的差異論から一神教としてのキリスト教を見る

 キリスト教一神教であるが、三位一体論という根本教義をもっている。父(ヤハウェ)と子(キリスト)と聖霊の三位一体である。一神教としては、変則的であり、パラドクシカルである。超越神が人間(神人)となるというのは論理から言えば、成り立たないものである。とまれ、問題は子キリストという現象化にあるだろう。私見では、超越神を現象化することは、精神を現象界に限定することだと思う。つまり、差異の連続的同一化という現象化があるが、この現象化の徹底化がイエス・キリストではないだろうか。ヤハウェは、差異の(反動的)連続的同一的現象化の根源的契機であったが、この過程、つまり、連続的同一化の過程の帰結として、超越神の連続的同一的現象化が考えられるだろう。つまり、超越性をも現象化することである。不可視を可視とすることである。超越性は反動暴力性をもつのであるが、この暴力が、完全に自我化ないし個体化されるということではないだろうか。(ここで、イエスの教えは無視して考えている。)反動暴力が、個体化されるとは、個体がヤハウェ的になるということである。単にイエスだけが、ヤハウェの子であるだけでなく、人間という個体がヤハウェ化、反動暴力化するということではないだろうか。つまり、ホッブズ化、万人の万人に対する戦争である。(イエスは、私は地上に剣をもたらしに来たと言っているのは、この意味ではないだろうか。)イエス・キリストは、隣人愛、罪の赦し等を説いたが、そこには、反動暴力が潜んでいると言えると思う。ニーチェは、イエスの福音もルサンチマンの花に過ぎないと述べたが、それは驚くべき鋭敏慧眼であろう。超越性がある限り、それは反動暴力性をもち、超越性を個体化するということは、個体のヤハウェ化、超越化であり、戦争人間の形成である。だから、イエスとは、「愛」の人ではなく、戦争・ルサンチマンの人であろう。ニーチェが正しいと思う。(以前に、D.H.ロレンスに関係させて、愛について述べたが、実は、愛とは連続的同一化の一環であろう。だから、イエスは愛の人でいいのである。愛=暴力=ルサンチマンである。)
 以前の検討を反復すると、私はルドルフ・シュタイナーの悪魔論を援用した。ルシファーとアーリマンであるが、これは正に連続的同一化と一致する。シュタイナーは、両者の間にキリストを置くことが大事だと述べていた。しかし、キリストとは、連続的同一化の帰結であるから、超悪魔となるのである。この結論は我ながら、どきっとしたが、論理的に考察するとこうなるのである。キリスト教は解体されるべきであろう。聖霊の宗教になるべきだろう。それは、結局、イデア界の宗教ということになるだろう。ポスト・キリスト教としての聖霊宗教である。フィオーレのヨアキムの宗教である。父も子も廃棄した純粋に聖霊だけの宗教である。そして、聖霊とは強度である。

p.s. 以前書いた記事をコピーする。
http://blog.melma.com/00122700/20040928095726
[宗教][哲学] ヨアキム主義とポスト・キリスト教

ブログのどこかに本件について書いたと思ったが見つからないので、簡単に繰り返したい。前者は、聖霊宗教であるが、聖霊とは、共感性をもつ限りでは、不連続的差異を指向する限り、神=連続性を指向するのでないから、肯定できるのである。また、これまでの不連続的差異論からの検討により、キリスト教は連続論として大きな問題をかかえていると考えられる。つまり、神の現象化としてのイエス・キリストである。神を不連続的差異の錯誤的観念と取るならば、それは、神の現象的連続化であり、きわめてイデオロギー的になろう。超越神自体問題であるが、それの現象・連続論化はさらに問題である。超越神を超自我に当るものとするなら、超越神の現象化とは、それを象徴界に固定するものであり、二項対立(善悪二元論)の暴力を発動させるものだろう。ニーチェキリスト教批判があり、また、D.H.ロレンスヨハネ黙示録批判があり、また、これに関するドゥルーズの卓見の論文がある。キリスト教原理主義が現アメリカ政権を支配している向きがある。(田中宇氏の配信)どうも、不連続的差異論から、キリスト教批判を精緻になす必要があるだろう。まぁ、キリスト教の解体を意味しよう。

p.s. ニーチェキリスト教批判であるが、周知だが、ルサンチマン宗教としてのキリスト教批判である。弱者宗教である。ロレンスの批判もそれに近い。つまり、弱者=権力者的宗教としてのキリスト教批判である。不連続的差異論から見ると、上述した神の現象化=連続論が一番の問題だろう。精神分析的に言うと、死の欲動(攻撃・暴力性)と二項対立・善悪二元論が直結しているだろう。つまり、独善的暴力主義である。アメリカ批判も行う必要がある。
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コメント
ODA ウォッチャーズ (2004/09/28 10:05:42)
『神』を連続概念と捉えるか、『不連続概念』と捉えるかは、捉える方向性によって、異なってくると思われます。例えば、『神』を空間概念として把握する場合、つまり、『彼岸』意識は、『不連続概念』であり、この場合の『神とともに生きる』とは、『神との共生』の意味に使われることも在ります。但し、自己を『神の化身』としたり、『現実の中に神を取り込む(偶像崇拝、寄付の強要)』などは、明らかに『連続概念』的なアプローチと思われます。
scorpio antares (2004/09/28 21:21:12)
えぇ、この神批判は明敏だと思います。中沢新一はこの点を自己批判する必要があるでしょう。そう、連続的神なのか、不連続的神なのか、これも斬新な発想だと思います。後者はほとんど問題にされて来なかったように思います。多神教は前者に近いですが、不連続的かどうかでしょう。多神教スピノザ哲学的でしょう。これは、一元論になります。だから、否定すべきなのでしょう。やはり、ニーチェドゥルーズ的路線を進展させるべきなのでしょう。スピノザは、今日、危険なのでしょう。とまれ、樫村/ODAウォッチャーズ氏の思想はもっとも前進的だと思います。思うに、O氏との遭遇は偶然なのでしょう。ニーチェドゥルーズ的でしょう。
ODA ウォッチャーズ (2004/09/28 23:49:33)
philosopractical chaosmos 氏と、ここまで来て、ひょっとしたら、途轍もなく大きな獲物を捕らえようとしている、と感じています。http: //blog.melma.com/00112192/20040928223622  資本主義批判としての不連続概念は、その一つです。 philosopractical chaosmos氏の提起された、両性の異質と接触の問題も、全く新しい地平線が見えてくるように思われます。古代を含めて、哲学者が血眼になって追い求めていた地平線を、高みから観察できる所に近づいているのでは、と思います。
ODA ウォッチャーズ (2004/09/30 04:01:47)
『不連続的差異論』について、キーワード登録してみました。内容については、今後、協力して充実して頂ければ幸いです。
scorpio antares (2004/09/30 07:39:59)
微力ながら、進めたいと思っています。


cf. フィオーレのヨアキム
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/yoakim.htm