「スマトラ沖大地震について」「差異保存/共存主義」「キリスト教を

[叡智学] インドネシア海底地震スマトラ沖大地震)について

今年は超異常な年であった。あと、二日残っているが。私の述べることはオカルトじみていると思われかもしれないが、また以前述べたことであるが、時代の変革期、社会の変動期、文化的創造期そして天変地異が共時するということである。これは、いわば「宇宙」的な出来事である。正しく言えば、イデア界での出来事である。イデア界は物質や精神の根源の世界である。ここでは、物質と精神は差異として共存していると考えられるのである。イスラームタウヒードの一性と似ている全体観である。もっとも、タウヒードのような一元論ではなく、絶対的不連続的多元論であるが。例えば、日本の天明の大飢饉では、浅間山の大噴火(1783年)があり、さらに飢饉を悪化させた。ちなみに、同年アイスランドラキ火山噴火。
http://www.try-net.or.jp/~h-arita/sharaku/shiryo/tenmei.html
http://www.keirinkan.com/kori/kori_synthesis/kori_synthesis_b/contents/sy-b/4-bu/4-1-4.htm
http://shimpc.sci.hokudai.ac.jp/shima/js2.html
http://www.asahi-net.or.jp/~rk7j-kndu/kisho/kisho03.html
しかし、この時期は西欧では、すぐフランス革命が勃発するし、時代は文化としてはロマン主義革命の時代である。また、たとえば、1922年はジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』、T.S.エリオットの『荒地』の刊行年で、文学史では「驚異の年」と呼ばれ、『失われた時を求めて』のプルーストの他界した年であり、日本では、宮沢賢治の『春と修羅』が書かれたのが1922年であり、刊行されたのが翌年である。また、20年代は芸術や哲学の大創造期である。ハイデッガーの『存在と時間』の前半部は1927年の発行である。まぁ、枚挙にいとまがない。さらに、スターリン主義が起こり、ヒットラームッソリーニファシズムを形成しだした時代である。そして、日本では、大正12年1923年に関東大震災が起きたのである。そして、1929年昭和4年が世界大恐慌の発生。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD
http://www.nengou-wine.com/n-hyou1/n-hyou3.htm
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/great_depression.html
いわば、ユング共時性シンクロニシティ)であるが、これは、不連続的差異論からオカルト・神秘学的ではなくて、論理整合的に説明できるのである。

p.s. 1920年代以降の日本、大正末期から昭和初期の時代は政治・社会的にはご存知の通りの、暗黒の時代である。治安維持法全体主義大東亜戦争


[叡智学] 差異保存/共存主義:差異保共存主義

先に、差異エゴイズムと書いたが、そうではなく、差異の特異性の現象自体が差異共存性を指向するのであるから、個体におけるエゴイズムは必要ないだろう。つまり、差異自体の発現が、自己保存・共存性を意味するのであるから、エゴイズムと共存にわけるのは誤りである。差異保存・共存力が差異と差異との共存性を意味するのである。だから、差異保共存力ないし、差異保共力と言っていいだろう。この差異保共力こそ、差異共存社会を作る「力」である。そう、強度と言っていいだろう。差異保共強度である。簡単に言えば、差異強度である。これが、差異保存/共存力として、不可分的に発現すると言えよう。だから、やたらに愛とか倫理とかを強調するのは間違っているし、またエゴイズム、自己中心主義も間違っているのである。この差異保存/共存力を資本主義は麻痺させると思う。思うに、イスラーム経済とは、この差異保存/共存力をベースにしているのではと思う。


[宗教][叡智学] キリスト教問題あるいは二つのキリスト教

 アメリカの独立宣言には、「神がわれわれを平等に創造した」と述べられている。この神がヤハウェであり、キリストであり、聖霊である。であるから、アメリカ合衆国とは、一種宗教国家であり、政教分離という民主主義の観点からいうと問題がある。とまれ、ここで確認するのは、キリスト教アメリカにおいては主導的であるという事実である。だから、キリスト教を問題にするのである。
 さて、超越的唯一神として、ヤハウェを捉えて、そして、その神の具現化としてのイエス・キリストを考えよう。イエスは、周知のようにユダヤ教の民族的枠を超えた国際的な宗教(世界宗教)の開祖である。問題は、ルサンチマンの神(ニーチェ)がベースにあり、それが神人となることにある。神の人間愛、隣人愛、罪の許しを説く神人。これは何を意味するのであろうか。不可視の超越神が現象界の可視的な神となるということである。これは当然パラドックスアンチノミー(二律背反)である。そして、聖霊や教会がイエス後の、神との交通メディアとなる。
 ここで、私見を述べる前に、D.H.ロレンスの「二つのキリスト教」論について簡単に触れよう。『黙示録論』(ちくま学芸文庫)で、ロレンス自身のキリスト教(組合教会)の体験から、それが強者を打ち倒す、破壊衝動に満ちた、自己栄光化をもとめる尊大な、集団主義の宗教であることを明かす。これをロレンスは激烈に糾弾している。これはニーチェに似る。そして、ヨハネ黙示録を検討し、そこに、キリスト教以前の先史古代の宇宙的宗教の残像を見いだし、また、パトモスのヨハネ福音書ヨハネとロレンスは区別している)の集団主義的復讐的宗教性を説いている。また、このルサンチマンの宗教としてのキリスト教とは別に、イエスの貴族主義的個人主義的に宗教を説いている。ロレンスは後者は肯定しているのである。一つは復讐心に満ちた、ルサンチマン集団主義的宗教であり、一つは愛の、貴族主義的個人主義的宗教である。この点でニーチェキリスト教観とは異なるのであるが。
 以前の検討では、イエス・キリストとは、母権宗教、イシス/オシリスキュベレー/アッティス型の異教が母胎であるとした。つまり、キリスト教とは、超越的唯一神と母権的多神教・異教との混成であると考えた。だから、根本的には分裂的宗教である。つまり、超越的一神教と内在的多神教との混合である。それを三位一体論でメイクアップしたのである。この問題はこれで展開できるが、別の問題を論じたいのでこれで留める。
 私が問題にしたいのは超越神の現象化の意味である。これは、超越神の地上化であり、これにより超越的自我が主導的になる。つまり、反動暴力的自我が主導となるのである。つまり、ホッブズの万人の万人に対する戦争状態となるということである(イエスは私は地上に争いをもたらしに来たと言っている)。ロレンスは述べてはいないが、イエス・キリストには、このような意味があると思う。これがもっとも恐ろしい事柄だと思う。ヤハウェも危険であるが、キリストはそれの徹底化であり、もっとも危険だと私は考える。中沢新一氏がキリスト教=資本主義の説を立てていたがそれは正鵠を射ていると思う。ヤハウェだけでは、資本主義は生まれないだろう。超越神の神人化において資本主義のベースができたと思う。キリスト=貨幣である。また、聖霊(反動強度)によって、キリスト=貨幣の増殖が指向されるのである。
 ということで、雑駁ではあるが、キリスト教批判を行った。はっきり言って、資本主義形成と言う面では、破壊的ながらも、進展的であったろう。しかし、こんにちでは完全に反動的で、全体的に破壊的になっているので、イデア界的な世界観にとってかわられねばならないと言える。キリスト教より、イスラーム教の方が、今や建設的であろう。もっとも、私は不連続的差異論こそ、二十一世紀の叡智であると考えるのであるが。



[叡智学] 真の差異共存民主社会主義

受動的共存的特異性と能動的排他的特異性

 この問題も急所の一つである。前者は、メディア界的、多神教的であり、後者は、現象界的、一神教的である。東洋的と西洋的とも言えよう。結局、世界の多くは、前者から後者へと移行したとわけであるが、しかし、その帰結がアメリカである。これは、滅亡路線である。日本は、衰滅路線である。つまり、後者は前者を棄却しているのであるが、しかし、前者は潜在しているし、民衆においては現前していよう。権力者や知識人においては、潜在ではあるが、棄却されている。また、この両義性が、精神の病気を起こすといえよう。問題はどちらも、イデア界性をもつ。前者は受動的に、後者は反動的に。
 イデア界を考えよう。定義から、不連続的差異が共存・共立・併存している。差異は、自立しているのであり、また、他の差異と共立している。ここでは、能動的であり、また、共感的である。能動と受動とのバランスがあるだろう。では、現象界をみると、バランスが著しく欠けている。能動的排他性と受動的共存性が分離・分裂・乖離している。近代主義は分裂症的なのだ。そして、これが現代において極端になり、病的な状態になっている。精神乖離症とでも言うものだろう。しかし、この二元論的分裂も、イデア界を考えることで、解消しうる方向性をもつのである。イデア界の理論化により、能動性と受動性が連結するのであり、排他性が共存性を、受動性が能動性を具有するのである。つまり、エゴイズム、コナトゥス(自己保存本能)が他者との共存性を形成し、主体性なき受動性が主体的能動性と連結するのである。すなわち、共存・共立・共生的エゴイズム、能動的・積極的受動性=主体的共感性に変容すると言えよう。これこそ、不連続的差異論の社会論であろう。そして、これこそ、マルクスマルクス主義者、シュティルナープルードンアナーキストドゥルーズユートピア主義者その他が明晰に洞察究明できなかった真の民主主義・社会主義社会であろう。

p.s. イスラーム教であるが、一神教であるが、キリスト教のような能動的排他性をもってはいないのではないか。どちらかと言えば、受動的共存性の方が強いのではないか。というか、能動的排他性はキリスト教ほど強くはないだろう。おそらく、能動的共存性の方が強いのではないだろうか。イスラーム教は、どうも差異共存民主社会主義に近いものがあるように思える。キリスト教(とりわけプロテスタント)は個人主義になるが、イスラーム教は共同体性をもつだろう。イスラーム教に関しては、イスラーム経済と関連して、かなり後で検討しよう。